「ありがとう」の処世術

「コンビニやスーパーで店員に"ありがとう"は言わない。」という発言をX(旧:Twitter)でしばしば見かける。店員は仕事でやっているのだから対価は給料という形でもらっており、礼の言葉は必要ないというのが理屈だそうだ。感謝の言葉を言うか言わないかは法律では定められていないし、思想・良心の自由がある以上本人なりの筋を通すつもりならば店員に「ありがとう」を言わないことに対して特に非難はしない。尤も、言わないことを他者に強要したり、言ってる人間を蔑むことは思想・両親の自由を侵害することになるのであってはならないわけだが。

さて、当の私は店員に対して「ありがとう」と言うかというと、結論から言えば言っている。レジで精算が終わった時や飲食店で料理が来た時には条件反射的に「ありがとうございます」と言っている。
「感謝の気持ちを忘れないように」とか「言う方も言われる方も気持ちが良い」というような道徳的な理由もそれなりにはあるのだが、詰まるところは「言わないよりは言っておいた方が良い」のと「言うのにそんな労力はかからない」という理由の方が大きい。よほど特殊な考えを持たない限りは、感謝の言葉を言われて不快に思う人はまずいないだろう。言われて幾らか快い気がする人がいるならば、言っておいた方が良い。そして感謝の言葉を発言するだけならばそんなに労力はかからない。「ありがとうございます」のわずか10文字8音節の発言にそれほど苦労はするまい。さすがに腰を90度曲げて深々と言わなければならないのなら相応の労力だが、「ありがとう」の一言だけならば息をする延長線上で言える。それだけで良いのである。

塾講師の個別指導での仕事では、こう言う情操教育はする必要は無いのだが、たまに感謝の言葉を伝えた方が良い時はこういうふうに教えている。「心から思っていなくても感謝や謝罪の言葉は言っておいた方が人間関係を円滑に進めることができる。」と。よほど生真面目な人か人生経験に乏しい人でなければ、心からの本音で人間関係を構築することは極めて困難で得ることを知っているはずだ。感謝や謝罪もその中で発される以上は誠意を求められる場面は限られている。少なくとも取るに足らない程度のことでのやり取りならば言わないよりも言った方が人との仲はとり持てるものだ。

こういう考えを持った個人的な背景には、感謝や謝罪の言葉を頑なに言いたく無い人を一定数見てきたことにあると思う。特に謝罪の言葉については言わない人は本当に言わないし言おうとしない。「謝ったら死ぬ病」なんてネット上では言われることがあるが本当にその類なのではないかと逆に心配してしまうほどだ。そういう病にいる人は「悪い」や「すまん」といった軽い謝罪ですら拒絶しているきらいがある。過去に一度謝罪して自らの非を認めたことで、大変な苦労でもしたのだろうか。それならば致し方ないとは思うようにしている。

もちろん私とて全ての場面において感謝や謝罪の言葉を言うべきとは思っていない。感謝や謝罪をすることで自分に大きな損失が生じるならそれは避けた方が良い。見返りを求めるような感謝や落とし前を求められるような謝罪ならばそれは避けるべきである。
結局は処世術としての「ありがとう」なので、他人から感謝の意を押し付けられて言うものではない。
だから私は「親に感謝しろ。」という発言自体は好んでいない。ただ言うだけで終わりならそれで良いのだが、こう言う発言の場合大半は親に見返りを出すことが求められることが多い。そんな時は店員にありがとうと言わない根拠と同様に、「親権がある限り親が子どもを育てるのは責務であり、放棄したら罪に問われるのは親の方」と言って反論すれば良い。自分を犠牲にしてまで「ありがとう」とは言うものではない。

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