大人は元気じゃいられない

とある日の休日、私は地域区民センターに足を運んだ。私の住んでいる地域とは隣の町にある区民センターで、体育館や温水プール、図書館、貸し会議室、喫茶店など施設が充実しており、運動不足解消する時によく訪れる。今回は共有スペースという、一定の広さに机や椅子がおかれており軽食を取ったり歓談を自習をするのに適した場所の一角でiPadを出してイラストや漫画の進捗を作っていた。私は日中は自宅よりも喫茶店などで作業をするタイプの人間なのだ。

共有スペースで作業をしてしばらくすると、小学生くらいの男子たちが4、5人ほどやってきてゲーム機で遊び始めた。私は飲み物を買うついでにその様子を見ると、その子どもたちはニンテンドーSwitchでスマブラの対戦をしているようだった。
ゲームで遊ぶ子どもたちはテンションが上がっていたようで、ゲームが盛り上がるたびに声をあげていた。声変わり前の高い声は共有スペースに響き渡り、私も幾らか騒々しく感じていた。誰かのお家や公園などで騒ぐならまだ良いが、公共施設内の共有スペースではさすがにマナー違反のようで、施設の職員から静かにするようにと注意されていた。その後は騒ぎこそしないものの、声を出すのは止めなかった。
ゲームは楽しいものではあるし、私もあの子らと同じ小学生の頃はスマブラDXで遊んでテンションを上げていたものだ。騒ぐ子らの気持ちもよくわかる。ましては昨今はコロナ禍で直にあって遊ぶ機会も限られていたのもあり、彼らなりに抑えられていた反動があったのだろう。注意をした職員も一方的に叱るというよりは優しく教え諭すように注意をしており、子どもたちの遊ぶ機会を奪わないよう適切な対応をしたと思っている。

改めて子どもは元気なものだなあと思う。歳をとって元気じゃなくなったと思ってくるが、そこで「子どもは元気」と片付けるのはやや短絡的だと思ってしまうのが私の性分といったところか。
子どもは元気というが、大人より体力があるかというとそんなはずはない。10km走らせれば大人の方が当然有利だ。体が大きい分溜め込んでいるエネルギーが多いのだから体力という観点で考えれば当然子供より大人の方が上だ。
それなのになぜ体力に劣る子どもの方が元気に見えるのか。理由はそんなに難しくはない。子どもは体力を温存する必要があまりないのである。
逆に言えば、多くの場合、大人は体力を温存して生きていかなければいけない。例えば私の場合は、区民センターで漫画やイラストの進捗をする時、そこで全力を使い果たすことはできない。まず自宅まで帰る必要があるし、一人暮らしなので食事や洗濯など身の回りのことは自分でやらなければならない。メールやSNSのチェックを行い、イラストの納期や打ち合わせの日程の確認などスケジュールの確認もする必要がある。常時先のことを見据えているので、全力を出し切ることは到底できないのである。突然スイッチがオフになってしまうと後々面倒になってしまう。
子どもの場合は、もちろん全ての子どもが該当するわけではないが、自分でやらなければいけないことはそんなに多くない、年齢的にも自己管理は十分にできていないしする必要もないのである。保護下に置かれている以上、極端な話体力を使い果たしてその場で眠りこけてしまっても誰かに介助してもらえると無意識的に思っているのだろう。そういう状況だから元気でいられるのではないかと考えている。
もしかしたら大人でも、いつぶっ倒れても介助してもらえる環境下なら常時全力でいられるのかもしれない。人間というのは置かれた環境によって変わっていくものなので、私もそういう環境に一度は置いてみたいと思ってしまう。よくある「もう一度子どもに戻りたい」という願望の裏には「自分の行動に責任を取らなくても良い」という思いがあるのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?