数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う

私は文系で大学に入学し、そして卒業したが、数字や数学というものは嫌いではない。数字というものは地域や時代を問わずに通用する普遍の真理だと言える。アメリカや中国、サウジアラビアでも"3+2=5"であるし、江戸時代の日本や中世ヨーロッパ、古代インダス文明でも"7-2=5"である。文化や風習、価値観が異なっていても数というもののあり方は変わらない。そこに惹かれるものがある。

大学時代、実績のある卒業生が登壇者として講演を行う意識高い系のゼミで「1万時間の法則」というものを聞いた。1つの分野でプロレベルになるためにはおよそ1万時間の練習を必要とする、というものです。
1万時間。毎日10時間練習したとして1000日、およそ3年弱の年月を必要とすると聞けば確かに途方もない数字である。現に意識高い系のゼミではそう言って世の中の厳しさとやらを教えていた。

しかし、少し頭を動かして考えてみればこの「1万時間の法則」、到底信憑性のないものであることがわかる。
確かに毎日10時間で1000日だと大変そうに聞こえるが、毎日3時間で考えるとどうか。毎日3時間だと必要とする時間は約3333日、年月で換算すると9年と2ヶ月弱である。少し大雑把に捉えると、毎日10時間を3年続けた練習時間は、毎日3時間を10年続けた練習時間とおおよそ同じだということだ。
毎日3時間と言ったが、正確には平均なので1日に6時間練習したら丸1日、1日に12時間練習すれば丸3日休んで良いということになる。これを10年続けたらプロレベルになり得るか。もしも知人にプロのピアニストがいたら聞いてみると良い。きっと否定されるだろう。ピアニストは幼い頃からピアノを始めて長い人では20年近く練習はしているだろう。20年続けるなら毎日3時間練習すればプロになれるとは思えない。将棋の養成機関である奨励会に所属する人は学校以外は将棋しかやってないと言っても過言ではないほど将棋の練習をしていると聞く。確実に1万時間以上は将棋を指しているだろうが、それでもプロになれなかった者は数多くいる。
1万時間は数年単位で見れば敷居が高く見えるが10年と長い目で見ればそれほど大したことがないように見える。同じ数字でも計算次第で捉え方は変わってくるのである。

さて、意識高い系のゼミを受けていた当時の大学生の私もこの程度の計算ならできたはずである。というかこれくらいできないと入らないレベルの大学ではある。それでも私は騙された。なぜだろうか。
「1万時間の法則」に対して反論ができなかったのは、話していた人の圧に押されていたからだと今では考えている。ドイツの政治家アドルフ・ヒトラーの格言に「嘘を大声で、充分に時間を費やして語れば、人はそれを信じるようになる。」というものがある。意識高い系のゼミでは教室内で大勢の学生が集まり、そこで何かしら事業で実績のある登壇者が「1万時間の法則」について強い口調で話していた。そこには場の空気というものがあったのだろう。「1万時間の法則」が嘘であると反論するどころか、その反論を考える空気ではなかったのだろう。
さらに言えば、たとえ同じ内容でも誰が言ったかによって捉え方が違ってくることは多々あり得る。この手の意識高い系のゼミは、実力の世界、実績や成果のある人間が権力を持っている。聞き手は学生であり当然実績などほとんどないのだから上下関係は明確になり、結局は理屈よりも「この人が言うんだからきっと正しい」と言う流れになってしまったのだろう。
また、意識高い系のゼミに参加する学生は生き急いでいるというか早い段階で成果や実績を求める人が多いから「毎日3時間を10年」なんて悠長な考えを持つことはなかったのかもしれない。そして当時の私もそういう感情に流されていたのだろう。若さゆえか無知ゆえか未熟ではあったのだと思う。


数字も時として人の感情には敵わないものである。人は数字ではなく感情で動く以上は致し方のないことなのだろう。

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