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倍速視聴はなぜここまで広まったのか?

若者は動画を1.5倍から2倍で見ている人が増えている。

という記事が出ていたがネットの反響は否がほとんどで少し息苦しさを感じる。

YouTube や Netflix その他多くの動画で最近通常設定として倍速機能が付いている。単純に需要が増しているからだ。

にもかかわらず、世の中にはまだまだ倍速で視聴するくらいなら見ない方がいいという層が多いのが今回のトピックで可視化された。もちろんその気持ちはよく分かる。だが、どうして倍速視聴をする人が増えているのかという背景について、向き合っている人はほとんどいないように思える。

結局のところ動画コンテンツ(映画ドラマアニメ)などの作品数が年々増えていっているということ、またみんなが一つのもの(TVもしくは映画館を通じて)を見ていた時代から、現在は複数のチャンネルから複数の作品をそれぞれの好みに合わせて見ているという変化がある。いわゆる多様性という事だが、そのためいろんな人と結びつき、敏感なアンテナがある人ほど見たいものと見たものの数位的バランスは崩れてきてしまっているのではないだろうか。

作品もまたカテゴリーを超えた繋がりが増えてきている。代表的なものはドラマと映画の関係だろう。
すでにアベンジャーズような映画をドラマ的に見せる手法や、チェルノブイリのようにドラマを映画的な作りにするような設計のものも増えてきている。また Netflix オリジナルの作品には映画監督(デヴィット・フィンチャー、ウォシャースキー姉妹、コーエン兄弟など)も多く起用され、映画の中でできなかったものをドラマでやっていくというスタイルが一般的になってきてもいる。資本もまたドラマに流れ込んでいる。こういった背景の中で、映画作品がドラマを意識しないわけがない。ならば純粋に映画だけ見ているわけにもいかず、かといってドラマだけ見るというのも映画ファンとしては味気ないということになる。すでに映画作品そのものの作品数も増えているというのにさらに関連するドラマまた、原作ものの映画も多く、原作本、漫画、アニメなどのメディアミックスまで追い、作品への理解を深めようなどと思ったら当然色々なものをふるい落とすしかなくなる。
1日の時間は24時間しかないのだからないのだから。ここまで考えた時に倍速に行き着くのはある種、当然の帰結ではないだろうか。

だが、要因はそれだけではない。純粋に一つの作品をじっくり何度も見ることへの価値が薄れてきていることもある。そういう作品が少なくなったわけでもない。(いくつかのコアなファンを生み出すような作品はむしろ繰り返し見る人は増えているだろう)そらで暗唱できる程見るという必要がなくなったためではないかと思う。かつてはそういう人間が少なからず近くにいたし、誰もが自分の大好きな作品の大好きなシーンは暗記していたのだ。一般的な会話の中で、暗記は一つの熱量と好きのバロメーターだった。しかし、今はググればあらゆる情報は手に入ってしまう。もはや覚えている価値は消え去ってしまった。そうなるといかにその作品を好きかを語るならば量。言葉数、多層的な視点、そして感想のいいね数となるのではないだろうか。量と倍速は相性が良いのだ。

また、この倍速問題に隠れているもう一つの問題は見たいという願望に対してアクションできないストレスが常に溜まっていくことである。

世の中で自分が知らないことを楽しんでいる人がたくさんいるというのが可視化されてしまったためどうしてもその情報を持ったまま日々生きなければならない。

これは何も映画やコンテンツに限った話ではないのだが、とにかく日々の何気ないルーティーンの中に紛れ込んでいる他者が自分のチャンネルにはないもので盛り上がり楽しんでいる姿を意図せず受け取ってしまう ことにこそ問題があるような気がする。そういったものにしがみつくように貪欲に摂取するだけではなく、共有しない心地よさも醸造する必要があるのではないだろう。

とはいえ、この問題は解決が容易ではない。何しろ自分には関係ないと思ってしまったら最後。自分の好きなもの、興味があるものだけが入ってくる世界に作り変えることはできてしまうし、そうなってしまえばそれはつまり断絶と自閉という現代の新たな問題につながっていく。
では、色々な事や物や人に触れようと思うと、その情報量は人が享受できるものよりもはるかに多いという事態になってしまう。
この対処法へのモデルケースはまだないのだ。その一つの解決策として倍速視聴があるのであればそれは一つの進化と呼んでもいいのではないだろうか。
むしろ倍速視聴に合わせて作品を作るくらいの勢いでもいいのではないかと私個人としては思っているくらいだ。

映画とドラマの話にまた戻ってしまうが、今度は邦画とドラマの違いについて話す。おそらく邦画を倍速で見ることはかなり厄介なことになる。傾向として長回し(定点カメラで一つのシーンをカット割りを入れずに取り続ける手法)を多用する傾向にあるからだ。この長回しを倍速で見てしまうと情緒的観点が完全に欠落するので非常に浅薄な印象になってしまう。こういった作品を倍速で見るのは正直言ってその作品を見たとは言えないのではないかと思う。また映画とドラマの大きな違いとして映画は映像で語ると言うものが良い作品の一つの指標となっており、映像で語るということの中には間の取り方、時間経過の中で生まれる変化というような部分にも焦点を向けている。万引き家族における安藤サクラの演技と言えば少しはイメージが湧くだろうか。

これはまさにリアルタイムで見ているからこその衝撃であり倍速で、例えば怒りから悲しみに変化した表情などを見てもこれはあまり意味がないだろう。情報としてあーこの人が怒ってるところから突然悲しみになったんだと言葉で言われてしまった位で分かるものではないからこそ芸術なのだ。頭ではなく心に訴えてくるものこそ芸術の価値だろう。大事な人が本当に怒っている、もしくは悲しんでいる時に通常の2倍速で謝られたり慰められたりしたらどうだろうか。心というのは非常に曖昧にできており(私は、基本的にはミラーリングに反応するようにできているのではないかと思う)そういった点で自分が普段適当に済ますパターンなどでは心は大概反応しないのだ。

こういった事を否定するような見方を倍速視聴が促しているというのはまた事実だと思う。

対して日本のドラマというものはそもそもテレビ視聴をするということを前提に作られており、テレビ視聴というものは常にチャンネルを変えられる危険性、何かをしながら見るという状況をもとに作られているなので基本的に映像で見せるというよりも台詞で語るという事の方が重視されている。

また先ほど映画で使われる長回しのようなものはほとんど使われない。チャンネルを変えられてしまうからだ。この同じようなことをずっとしている映像は何なのだろうかと思われてしまったらそこまでで、もう少し刺激的なものにチャンネルを回されてしまうのである。

こういった作品において重要なのはテンポ感でありセリフの抑揚でありストーリーの展開であったりするこれらは倍速で見てもそこまでプレはないように思う。もちろんセリフの「ため」であったり、たった1テンポだけでも言うだろうと思ったセリフが詰まってしまうというようなドラマの見せ方もあるので一概には言えないが、基本的にセリフものは1倍から1.3倍くらいであればそんなに変化はないものなのだ。
むしろ映画でも逆に倍速で見た方が良かったという作品も幾つか存在する。そういった自由な見方が創造されても構わないのではないかと私は思う。それは過去バッハが譜面の一部だけを引くと別の曲になるようにしたように、ビートルズがアルバムを逆再生しても聴けるようにしたものや、レディオヘッドが2枚のアルバムを同時に聴くことで全く新しい作品として聞かせたものと似ている。そういう遊び心自体はクリエイターの中にももちろんあるものだろう。

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