いやなことほど思い出す

「あー、うまかあ。つめたくて甘くて、生き返るごたる」
 なんとも満足げに女はそう言うと、湯呑茶碗を畳に置いた。座布団に正座する姿勢を少し正す。身振り手振りで苦しいだの熱いだの訴えていたので、足も崩れて、当然、座布団からはずり落ちている有様。それを直してこう続けた。
「あんたのね、これからン事ば、考えんといかん」
 打って変わってしんみりとした口調になる。
 半眼でこちらを見ているけれど、本当には何を見ているのかもよくわからない表情。ただ先ほどからの熱演ぶりで、確かにのども乾いていたのだろうなと、そういう目で見ているとなんだか怒りも冷めてくる。これでこの人いくらくらい貰えるんだろうと、そんなことをぼんやりと考えた。

 おふくろの葬式がすんで三日後くらいだろうか、養父から客があるから相手をするようにと言われた。なんでも彼の実家から来る人のようで、失礼のないように相手をしてほしいとのことだった。忌中で学校も休みだし、誰かの相手をすることは気も紛れていいやと単純に考え、うなずくと、養父は安心したようにうっすらと笑って、
「じゃ出掛ける」
と消えていった。このまま文字通りこちらの人生の記憶からは消えていってしまったので、これは比喩ではない。
 この日を境にほとんど彼に対する記憶がないのは、不思議というか、仕方がないだろというか、この後に起こったことが原因なのは間違いない。
 まあお悔やみの言葉でも貰って時間をつぶすくらいのことだろうと思っていたのだけれど。
 ほどなくチャイムが鳴り、ドアを開けると、五十代くらいの、ああ、ほんとはもう少し若かったのかもしれない、ただ自分が五十の年を数えるようになって思い返すと、似たような年代だったのかなと思うだけで、実際にははっきりとはしない。ただどこにでもいる普通のおばさん、何なら、子供を三人くらい育てていてささやかだけれど確実な幸せに包まれているかのような、そんな女の人だった。
「まずはお線香を」
 そう言って頭をぺこりと下げ、彼女はずかずかと家の中に入ってきた。仏壇のそばに行き、こちらを見る。うなずいて見せると、座布団を使い、手にしていた買い物かごから数珠を取り出すと何やら念仏を唱えはじめる。こちらもそばに控え、見知らぬ女の様子を見守る。しばらく唱えた後、線香をあげる。もう一度念仏をもごもご唱えて、、くるりと振り向いて「この度はご愁傷さまです」と言うから、こちらも素直に頭を下げた。
「私、〇〇宗のいたこです。口寄せですね、ご存じですか? お母さまがあなたに伝えたいことがあるとおっしゃっています」
 なんと悪趣味なと、今の自分であればその場で怒り心頭、すぐさま叩き出すところだけれど、当時十六歳になったばかりだった少年はちょっとむっとはしたものの、初めて見るいたことやらに少し興味を持ってしまって、ちょっとにこにこと「何でしょう」と尋ねてしまっていた。

(母親は自殺。まあ、気の毒っていえば気の毒だけど、名主さんちの言うことは伝えなきゃね。出来の悪い次男坊とはいえ、いつまでもここの家にる義理はない。自殺なんかするような家には良くないものが憑いてるんだから、さっさと縁を切ったほうがいい。新しいいい人捜して、ちゃんとした家庭を作らなきゃ、まだ若いんだし。それにしてもこの子、生意気なそうな感じ。涙一つ見せるわけでもなしに、わたしに向かってもにやにや笑ってる。なんか見透かしてるぞって言わんばかり。××高校に通ってるらしいから頭は悪くないんだろうけど、大人を小馬鹿にしたような感じ、気に入らない)

「あー暑い、ここは暑か。真っ暗で、なんも見えんばってん、暑くて暑くて仕方んなか。お母さんはもう死んでしまったばってん、あんたはこれから一人で生きていかんとあかん。お義父さんは、何かの時には助けてやらすだろうけど、あんまりそれに甘えんで、本家のほうに返してあげなっせ。あんたは一人で、これからは一人で生きて行かんば」

 まあ、なんとなく予想はしていた流れではあった。亡くなったばかりの母親を愚弄されたような怒りに一瞬気持ちが持ってかれそうになったけれど、それよりも苦笑のほうが強くなって、「なるほど」とついつい頷いてしまった。
「なるほど、で僕の名前は?」

(あ、また笑った。名前なんて、知らないわよ。聞いてこなかった。ほんとにこの子は生意気な感じ。なに、その蔑むような目。あたしだってこんな汚れ役、やりたくはなかった。でもあそこの家に言われたら断るわけにもいかなくて)

 母親は僕を生んですぐ離婚して、今でいうシングルマザーとやらになった。で、しばらくして養父と出会い再婚。養子縁組もしたので戸籍上、僕等は親子ということにはなった。そうこうして、結局二人はまた離婚。と言って完全に縁が切れてるわけでもないようで、三人で一緒に暮らしていたし、実際の生活にほぼ変わりはなかった。
 一度目の自殺は未遂に終わった。中学三年の夏休みのことだった。
 酒に酔って衝動的に飛び降りた。
 その頃は小さなマンションの三階に住んでいたのだけれど、そこのキッチンの小さな窓から落ちた。命に別状はなく、でも顔面に覆い隠すこともできないひどい傷を負い、多分その時に彼女の精神は死んだのだ。友達からきれいなお母さんだねと言われ続けていて、僕も自慢だったし、おふくろ自身も自信があっただろうその美貌も、醜く引き攣れた目元と口元のせいで化け物めいたものになってしまった。数か月の入院生活後、自宅に戻ったころには以前とは別人のように陰気な鬱々とした性格になってしまっていて、あれほど旅行やショッピングやらが好きだった母は、記憶にある限りあの後一度も外出しなかった。ほとんど喋りもせず、喋るにしても口元の傷のせいでまともに話せない。それまでの明るく気丈だった母のイメージから一転した状況にうまく対応できず、僕はついつい邪険に扱ってしった。たまに発する僕の強い言葉に、おふくろの寂しげな表情が、今思い出すと辛い。
 その頃の生活のことを事細かに書くつもりはないので、二人のことはこれくらいにしとくけれど、養父とは一応、親子だということ、これが重要。当時は一応、お父さんとは呼んでいたし。馬鹿にしてたけど。
 そうして、数か月後、高校一年の春、風呂場でガス管咥えて、おふくろは死んでた。あの頃はまだ都市ガスに一酸化炭素が入ってたらしく、そのせいで死んだのだ。
 その日、学園祭の練習が始まったころだったな、家に帰ると鍵がかかって、いるはずの母が出てこない。飼ってた犬はわんわん激しく吠えてるし、なんか異様な感じがして、僕は隣の商業ビルの屋上へ上がった。そこから見える限り、僕の家の窓は大方開け放たれていて、それで僕は滑り出し窓から中に滑り込むように入った。
 猛烈なガスの臭い、吠える犬の音。僕は風呂場へ向かい、そこで倒れているおふくろを見つけた。ガス栓を占め、風呂場の窓を開けた。その死に顔を見つめ、口元にうっすらと血が流れているのを今でも鮮明に覚えている。上気したような頬が久しぶりに美しい母の顔に重なって見えたことも。
 遺書らしきものもあった。途中で苦しくなって、こらえきれずに書きなぐったような文章。途中まではごめんねという言葉が連なっており、一人で強く生きるのだ、幸せを勝ち取るのだと書いてあり、半ばから文字とは判別できないミミズのようなただの線になっていた。
 ああ、思い出した。
 確かにこんな田舎丸出しな方言では喋ってなかったな、そう言えば。

(こんなもんでいいかしら。伝えるように言われたことは喋ったし、どうせこっちの言うことなんて気にもしてないみたいだし。若くて気の毒だけど、ちゃんと働いて、一人で生きて行くことくらい今の世の中ならできるでしょ、きっと。そろそろ終わりにして、水でも貰ってって、あれ、目の前が暗くなってきた、あたしが端に寄せられていく、まるで、まるで本物が降りてきたよう)

「一人で生きて行くように考えなさい。そしていつかいいお嫁さんと子供をたくさん作って、幸せになることを考えてね。ごめんね、こんな風に死んでしまって。二回目のは本当に自殺。だからそれはお母さんの罪。でも最初のは、酔っ払ってたから覚えていない。お義父さんに落とされたとしても覚えてない。もう、今となってはよく分からないけれど。さあ、そろそろ行くから。幸せになって」

 その女が突然ぶるぶると震えだし、「この辺で失礼します、この度はこの度は」とあたふたしながら出て行った。半分腰を抜かしているような感じで、なんとも無様な歩き方だった。階段から落っこちちゃうんじゃないかとこちらが心配になるくらいだった。
(母さん、なわけないね)

 それから数年が過ぎ、上京して大学も終えて、就職し、所帯も持った。ささやかながら幸せな生活、そんな感じで暮らしてはいる。特に不満はない。
 数日前、突然、義父から電話があって、養子縁組を解消するように告げられる。ああ、今まで義理とはいえ親子だったのかと、その時に思い出す。大学以降、もう二十年以上、年賀状のやり取りすらしていないのだった。思い出さなければよかった。
 向こうには向こうで新しい大切な家族ができたのだろう。
 こっちから願い下げだとばかりに了承する。あいつはそれなりに成功した人生を送っているのかもしれない、こちらには渡したくない財産が、残してあげたい人間が、できていることなのだろう。
  なあ、母さん、どうして欲しい? 俺は何をすればいい? 今この文章、書いてるのは母さんだろ? 俺がこんな文章を書くことはたぶんないはずだから。
 せっかく今まで、いろんなことを忘れて暮らしてきたのに。
 憎しみや恨みを。
 
 幸せになって。
 今のうちならあの人が死んだらお前にも遺産があるでしょう?
 そして、幸せは自分の手で勝ち取るもの。でしょ?

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