いつか一つの航跡を

 私の左手首をしっかりと掴んでいるタクマの右手、そこから少しずつ滴ってくる血と汗とを頬に受け、私は叫んだ。
「もういいよ、タクマ、離して。このままじゃ二人とも落っこっちゃう!」
 抜け落ちそうな手摺で身体を支えて、タクマは必死に私の重さを引っ張り上げようとしている。
 歯を食いしばった必死な形相。言葉にならないうめき声をあげて、反動を付けたその時、
タクマの驚いたような表情、砕けたコンクリートの塊、抜け落ちた鉄の部品が落ちてくる、
ガクンと視界が傾いて、それまで見えてなかった青空がタクマの短い銀髪の向こうに、
自由になった左手の先にタクマの指先が見えて、
ふんわりと、
 私は落ちていった。

 方舟って結局選ばれたものが生き残った訳で、それってやっぱり公平ではないような気がする。かといってスペースの問題があるだろうから、全ての生き物を乗せる事はできないはず。どういう基準で選んだのか、選ばれたのか、もう少し詳しく調べようとスマホに書き込む。吊り革につかまったまま、注意を画面にむけていたので周りの状況に気が回らなくなっていた。
 火曜日の通勤電車、週二日目でまだやる気に満ちてる車内、程よい乗車率の中を少し強めの冷房が乗客たちの間をすり抜けていってるのと同じようにさり気なく、私の右の太ももを撫でる感触がしたのだ。乱暴に遠慮なく触る感じ。めんどくさいなとも思ったのだけど、こういうのは見逃すわけにはいかない。仕事に送れる懸念もあるけど、少しくらいの遅刻ならと私は判断した。それよりなにより社会正義。
 アプリを起動して、私はコールボタンを押した。
 けたたましいブザー音が鳴り始め、「痴漢です、痴漢です」とスマホがコールする。車内がざわつき始め、こちらを眺めやる気配があちこちに湧き起こる。
 それなのに先程から続く感触に変わりはない。まったく、なんて厚かましいオヤジなんだろうと、私はそいつを睨みつけた。
 そいつは軽く口を開けて全くの無防備な寝顔で私の眼差しに対した。色白の顔、短めのストレートボブは銀色に脱色されていて、私の視線の高さとそんなに違いはない。背中に楽器のケースを背負っていて、その下の方が、電車の揺れに呼応して、ぐりっぐりっと私の太ももを圧迫していた。
 私はさりげなくスマホを操作して騒がしい音声を消した。
 次の駅に着く。
 扉が開くと駅員さんたちが数名、私たちを待っていた。
 自動通報モードになっていたのらしい。釈明する隙もなく、私たち二人は連行された。

「っての、ツルギはどう思う?」
 タクマが憮然とした表情で聞いた。
「痴漢と間違えるなんて失礼ブッチギリじゃない?」
「うーん」
と考えているのが、私の最愛の息子ツルギ、保育園のお迎え後、おやつのコンビニスイーツ、贅沢マロンのロールケーキとやらをほおばっている最中。
「だから、悪かったってば、あの時は」
 私はタクマと自分の為に紅茶を、ツルギのためには冷たいほうじ茶を用意しながら声をかけた。
 あれから三か月が経ち、どういう縁だか妙に気の合った私たちは一緒に暮らすようになっていた。まあ、私とツルギの住む狭いアパートにタクマが転がり込んできたというだけの話だが、一番驚いたのは、タクマの持ってきた荷物が背負ってる楽器ケースだけ(ベース用のそれだということだった)だったということ。着替えやら洗面用具も持たずに、今まで一体どういう生活をしてたのだろうと不思議に思ったけれど、見てると化粧もしない服装もいつもジーンズに黒いTシャツ姿で、なんだかとってもシンプルな感じ。
「タクマは寝てたから悪くない」
「お、分かってるねえ、ツルギ」
 ガシガシと頭を撫でられるツルギ。
「で、ママは?」
 二人の前にコップを置いて、それから自分の飲み物に口をつけながら私は聞いた。こくこくとお茶を飲んだ後、にっこりと笑って、ツルギは応える。
「なつなは間違ったけど悪くない。みんな仲良くなったのは間違ったせいだから」
「ふーん。結果オーライだってこと?」
と、タクマが笑いかける。
「うん、作戦通り」
 真面目な顔でツルギが頷く。
「神様の作戦通り」

 特異点を探し出すのはさほど難しいことではなかった。マーカーを確認し、その生活パターンを解析し、移動中の連結車両内での遭遇に成功。その後、彼女の安全確保のため生活空間を同じくした。適性の攻撃と想像されるものは何度かあり、その都度撃退はしたが、それが本当に敵の意志による攻撃なのか、この世界の偶然的な行為なのかは不明。引き続き警護する。

 いつもの先生と違うからか、ツルギは私の手を掴んだまま離れようとしなかった。
「どうしたの、赤ちゃんみたいだよ、ツルギ」
 少し意地悪な口調でそう言っても、ぎゅっとしがみついてくる。
「おうちに帰りたい」
 私の目を見すえて真剣な表情で言った。
「わがまま言わないの。ママ、これからお仕事だから」
「おうちでタクマと待ってる」
「駄目よ」
と、小さな手を引き離して、私はその初めて見る保母さんにツルギを預けた。
「じゃあね」
 そうしてその場を後にした。

 特異点が背中を向けた瞬間、マーカーは適性オブジェクト、巨大な蟷螂めいた現象にて本体を破壊された。原着し、アーマー展開、マーカー思念を回収し、特異点を確保、後、蟷螂現象に対峙する。

 ぐしゃっという巨大な生肉の固まりを叩くような凄い音がして、私は恐る恐る振り返る。嫌な予感が厭な未来を何通りも頭の中に映し出し、そうしてそのうちの一つが現実になっているのを目にして、私は一瞬気を失った。
 次に記憶にあるのは、頭部を引きちぎられた人形の様子、それがツルギと同じ服装をしているということの笑えない冗談。そんな悪夢を引き起こしているのがヒトよりも巨大な茶色く光る蟷螂のような怪物だということ。
 楽器ケースを背負ったタクマの背中、銀色の膜に覆われて二回りも大きな巨人になる。私はその腕に抱きかかえられ、ぼんやりと声を聴く。
「なつな、ここにいるよ」
「確保。絶対に守る」
 蟷螂がやって来る。
 私は気を失った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?