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中国古典 北宋時代 「徽宗」 

1082年―1135年没
徽宗は北宋の第八代皇帝。姓は趙で、本名は佶です。
神宗の第十一子であり、兄の哲宗の死後、母の向皇后からの強い推薦により即位しました。
太后の死後、徽宗は自ら政治を執り、宦官の童貫を信任しました。彼は王安石の新法党を支持し、蔡京を宰相に抜登用しました。その後、蔡京は国政を十六年にわたって牛耳りました。
徽宗は贅沢な生活を送り、書画骨董の収集に国の財政費やし、国民に高い税金を課して民衆の反乱を引き起こしました。女真族の金が勢力を拡大し、遼を滅ぼして宋の首都に迫りました。その後、長男の欽宗に帝位を譲り、南方に逃れました。
1127年、首都は金軍に占領され、徽宗は欽宗とともに捕らえられ、北方に幽閉されました。そこで生涯を閉じました(靖康の変)。

徽宗は、政治的に無能であり、北宋の滅亡を招いた皇帝でしたが、書画学院を創立し、収蔵品の整理に尽力するなど、文化的に大きな貢献をしました。
また「風流天子」として知られ、芸術家としての才能もあり、書画や詩、音楽に造詣が深く、特に花鳥画の名手でした。

彼の書は特異で、過剰な起筆や終筆形を見せる極細の字画で骨格だけを示した「痩金体」として知られています。

代表作に「詩巻」「千字文」など。

徽宗「詩巻」玄妙臨


・玄妙個展2021「古典漫遊〜文字の変遷をたどる〜中国編」
・玄妙個展2022「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」
・玄妙個展2023「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」

墨玄会 主宰 玄妙 


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