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黄土高原と「朱の道」「貝の道」 by 村松弘一(GEN世話人)

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 近年、「シルクロード(絹の道)」のみならず、「朱の道」や「貝の道」といった、古代中国文明における「○○の道」を探す研究が注目されています。その通り道にあたるのが黄土高原です。今回はその意味を考えます。
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 あけましておめでとうございます。いよいよ2024年となりました。緑の地球マガジンのエッセーを楽しみにされているみなさん、本年もどうぞよろしくお願いいたします。昨年、久しぶりに高見さんらGENスタッフ3名が蔚県・大同を訪問しました。今年はいよいよツアー再開となるのか、期待したいところです。
 
 さて、今回は私の今年の抱負というか、現在取り組んでいる黄土高原の歴史研究についてお話します。一昨年までの研究内容は昨年9月のGENなんでも勉強会「気候変動が中国古代文明の歴史を変えた~それは黄土高原から始まった」でお話ししました。どうぞ、動画を御覧下さい(https://www.youtube.com/watch?v=8tFetUgzfKY&t=147s)。
 
 昨年後半からは、黄土高原と青海高原の交通路と開発の歴史に興味を持っています。きっかけとなったのは、水銀朱の硫黄同位体の分析をする研究者との出会いでした。古代中国の墓には埋葬者のまわりに、魔除けのためか、辰砂と呼ばれる朱色の粉がまかれています。辰砂は水銀朱とも呼ばれる硫化水銀で、地下の熱水が吹き出して溜まってできたものだそうです。中国大陸はもともと三つの大きな島(プレート)がぶつかりあってできたもので、衝突線にあたる貴州省・湖南省の長江上流域ラインと青海高原から秦嶺山脈にかけてのラインでは、温泉が吹き出し、そこに朱鉱山ができます。つまり、水銀朱は中国のどこでも採掘できるわけではなかったのです。そして、興味深いことに、長江中流域で発掘された墓の水銀朱の硫黄同位体を分析したところ、湖南省や貴州省の鉱山のものとは異なり、遙か西北の青海高原の鉱山から産出される水銀朱と同じような値を示したのだそうです。つまり、この水銀朱は青海高原から長江中流域にもたらされた可能性があります。

 そうなると、いつごろから青海高原と長江中流域は、「朱の道」でつながっていたのでしょうか。ちなみに、青海高原の朱鉱山は青海省同徳県にあるそうなのですが、その付近には宗日遺跡という新石器時代の遺跡があり、そこからはなんとタカラガイ(海貝)が出土しています。このタカラガイはかつてここが海だったことを示すのではなく、いまから4000年以上前の人々によって海からもたらされたものと考えられます。のちの西南中国の四川や雲南の遺跡から出土したタカラガイはタイ等南方の海からもたらされたものですが、それよりも前の新石器時代に青海高原で出土したタカラガイは中国大陸東南の沿岸部からもたらされたとの研究があります。そうなると、長江下流域以南の海岸で採られたタカラガイは、中原(洛陽の周辺)に一旦集積され、そこから黄土高原を経て、青海高原へともたらされた可能性がありそうです。つまり、長江下流域から青海高原までは「貝の道」がつながっていたことになります。そう考えると、その逆の「朱の道」も新石器時代からあっても不思議ではありません。まさに、青海高原から中原、長江流域を繋ぐ「朱の道」「貝の道」、そして「絹の道」だけでなく、その他様々な「○○の道」が行き交う結節点が黄土高原であったと言えるのかもしれません。今後はもっと黄土高原を通る「○○の道」を捜索したいと思います。それは黄土高原が中国文明の「中心」であったことを意味するかもしれません。

 最後に、タカラガイと言えば、何と言っても、上田信先生の『貨幣の条件-タカラガイの文明史』(筑摩選書、2016年)ですね。今回みたようにタカラガイも黄土高原とかかわります。緑の地球マガジンの読者のみなさん、必読の書ですね。


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