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黄土高原史話<5>農耕へ、遅れてスタート by谷口義介

 前回の拙文に対し、博雅の士よりご教示多々。 「“二鍋頭”は60度以上。1瓶7元 (100円弱)は貴い、自分は5元で買った」(或る北京通)。
 「杜牧の“杏花村”は山西省ではなく、安徽省の方の杏花村。彼は2年間そのあたりの地方官だった」(中国文学者)。
 「吉家庄遺跡は桑乾(干)河の右岸 だが、懐仁県でなく、大同県に属するはず」(高見邦雄GEN事務局長)。
10年間、黄土高原で地の襞(ひだ)を這うように歩き廻ってきた高見氏、 土の中にも眼がゆくらしく、あるとき地図で見て、訪ねたことがある由。
 下図の如く、吉家庄遺跡は大同県の西南、吉家庄郷に属します。南に殿山を負い、北に桑乾河をひかえる緩やかな傾斜地。南北1000×東西750メート ルの範囲に、たくさんの彩陶と少しの 黒陶が散布。これを資料として吉家庄は、新石器時代の仰韶文化晩期と龍山文化期に比定されています。


 前回ふれたもう1ヶ所の水頭遺跡は、桑乾河より北へ10キロ、大同県県城の東北、西坪鎮の北500メートルに所在。北と東を大同火山群に囲まれた緩い傾斜地にあります。総面積100万平方メートル。吉家庄と同じく、仰韶晩期と龍山期という時期の異なる土器片 を含んでいます(ちなみに仰韶晩期はB.C.3000年ごろ)。
 この2例のほか、大同盆地(桑乾河流域)では、雲崗附近・雲崗石窟対岸など、数ヶ所の新石器時代遺跡を数えるのみ。これは、旧石器時代の遺跡が少なくとも20有余存在するのと、大きな違いです。
 つまり、このあたりの自然環境は、 狩猟採集が基盤の旧石器人にはうってつけでも、農耕を主とする新石器時代人には不向きだったということ。そのため、中国北部で畑作農耕が始まった河北省・磁山、河南省・裴李崗のB.C. 6000年よりはかなり遅れて、この地に新石器文化が進出しえたのでしょう。
 山西省に限っていえば、旧石器遺跡の2大密集地は汾河中・下流域と大同盆地で、石器の特徴からみた両者の文化には顕著な相異が見られます。独立した文化圏といってもよいほどです。 ところが、つづく新石器時代になると、汾河周辺には仰韶・龍山文化の遺跡が爆発的(?)にふえるのに対し、大同 盆地では寥々たるもの。しかも、前述 の吉家庄・水頭両遺跡の仰韶文化は、 汾河流域の影響を強く受けています。 おそらくその文化は、汾河上流から五 台山の西側をぐるっと廻り、桑乾河の上流に出て、大同盆地の中央部に入ってきたのでしょう。
(緑の地球83号(2002年1月発行)掲載分)

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