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黄土高原の歴史と今①~蔚県と馬と飛狐峪と by 村松弘一(GEN世話人)

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「黄土高原の歴史と今」をテーマにGENの30年間の
黄土高原での活動は地球環境史のなかでどう位置づけられるか
わかりやすく書いていきます。その第1回です。
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 みなさん、こんにちは。世話人の村松弘一です。今月から2ヶ月に1回程度、このメルマガに寄稿させていただきます。事務局から私に与えられたテーマは「黄土高原の歴史と今」です。GENの30年間の黄土高原での活動は地球環境史のなかでどう位置づけられるか、わかりやすく書くつもりです。どうぞ、お付き合いください。


 1回目の今回は、いまから遥か2300年前、秦の始皇帝が天下を統一する百年前の戦国時代のお話。当時、黄河下流域の邯鄲という大都市を拠点としていた趙という国がありました。紀元前4世紀後半に即位した趙の武霊王は「胡服騎射」という新たなスローガンを宣言しました。それまでの戦国の国々は和服のような布を巻くような衣服を身に着け、戦争においては「戦車」と呼ばれる3人乗りの馬車を使っていました(中央に御者が馬を操り、両側の武人が敵とすれ違いざまに攻撃する)。これに対して武霊王は北方の遊牧民族のようなズボン(胡服)をはき、馬にまたがって矢を放つ(騎射)ことを奨励しました。これを契機に、趙はほかの戦国諸国よりも軍事的優位に立つことになります。
 「胡服騎射」の政策をおこなうためには、大量の馬が必要となります。趙が拠点としていた黄河下流域は穀物の生産には適していましたが、広い草原はなく、必ずしも馬の生産に適している場所ではありませんでした。では、どこから馬を調達したのか。もっと、北に目を向けてみると、東に今の北京があり、その北には東西に燕山山脈が走り、その西は太行山脈へと続いています。太行山脈の北辺は代と呼ばれ、古代中国では「代の馬」と呼ばれる優れた馬の生産地でした。ここで生産された馬を一定の年齢になったら黄河下流域に移し、「胡服騎射」の軍馬として利用したのです。


 ところで、以前、GENは蔚県の代王城鎮というところで緑化をしたことがあります。ここは漢の時代に代国の役所が置かれた場所です。蔚県の盆地の中央部に位置し、衛星写真でも、まるい漢代の城壁見ることができます。その北には壺流河という、大同を流れる桑乾河の支流があります。この壺流河の湿地の保全もGENの蔚県での重要なプロジェクトです。2300年前、ここで多くの馬が生まれ、育てられたことを考えると、豊富な水や草原、盆地を囲む山々と森林という当時の風景を想像できるでしょう。GENの活動の意義を感じていただければと思います。


 さて、蔚県のツアーに参加された方は、日本軍が通ったという飛狐峪に行ったことがあるでしょう。『史記』にも飛狐口という地名があり、代(蔚県)で育てられた馬は飛狐口を通って、太行山脈を越えて、黄河下流域の邯鄲へと送られました。まさに、飛狐峪は古代の馬の道でもあったのです。悠久の中国史を感じながら、緑化活動・湿地保全活動をする、GENの活動の醍醐味ですね。次回はどこの歴史を書こうか、どうぞお楽しみに!





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