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黄土高原史話<13>華北に象がいた頃 by谷口義介

 適度に小さな地図がよいでしょう、中国の領域を黒く塗りつぶしてみると、雄鶏の形が浮び上ります。東北地方が頭で、トサカもついている。山東半島が手羽、西方の新疆ウイグル自治区が尻尾で、台湾と海南島が2本の足。首都の北京は、ちょうど喉元あたりか。
 しかし形は雄鶏でも、中国はやはり巨象というべし。
 ロシア、カナダに次ぐ広大な面積(日本の26倍)、複雑多様な自然的条件、今や13億を超す人口、90%を占める漢族のほか55(57?)の少数民族(90年時点で7万4934人の未識別民族もいるとか)。
 「群盲 象を撫ず〔評す〕」の愚は避け、以下、象そのものについて。
 B.C.121年のこと、南越国(広東・広西)から前漢の武帝のもとへ、能言鳥(オウム)と共に馴象(飼い馴らした象)が献上。別の文献に「巨象・獅子・猛犬・大雀は、外囿に食(やしな)わる」と見えますから、南方の珍奇な貢上品として、動物園で飼われたのでしょう。
 これより前の春秋時代、B.C.506年、楚王は象の尻尾に火の束をくくりつけ、呉軍に向けて放たせた、と。あまり効果はなかったようですが、この戦法が可能だったのは、楚の地(湖北省)に象が生息、ハンニバルの象部隊には及ばぬものの、象使いもいたのでしょう。
 さらに遡って殷代には、土木工事にこき使われていたらしい。図にあるごとく、「爲」の甲骨文は象の上に手を加える形で、象を使役するという会意の字。「王は我が家(廟)を爲らんか」と卜する例などがあって、廟屋を作るような造営には象を使役しました。殷墟からは陪葬された象の骨も出土、死後も労役が期待されていたことを窺わせます。また卜辞には、殷王が狩りを行なうにあたって、「象を獲んか」と占っている例がいくつかあります。しかして殷王の狩猟は王都からさほど遠くない範囲でしょうから、殷代、河南省あたりまで野生の象がいたとみてよいのでは?


 つまり象の生息地は、殷代の河南省から春秋期の湖北省へ、さらに前漢の広東・広西へと次第に縮まってゆき、それに比例して華北では奇獣として珍重されるようになったわけ。
 華北から嶺南への象の退却は、そのまま受難の歴史でしょうが、中国北部における気候の変動をも示しているようです。
(緑の地球91号(2003年5月発行)掲載分)


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