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黄土高原史話<52>北魏の初代道武帝 by 谷口義介

 GEN の黄土高原ツアーで緑化の作業とセットになっているのが、大同雲崗石窟の見学。いかに世界遺産とはいえ、リピーターには「毎度おなじみの」では、いささかもって…。
 それはともかく、平城(大同)を北魏の都とした拓跋珪(たくばつけい)道武帝は、歴史に残る名君の一人。ただ彼の行なった大改革は、祖父什翼犍(じゅうよくけん)の施策をモデルに、その方向を徹底したところにあった、かと。
 その第一は根拠地づくり。前回述べたごとく、什翼犍は338 年、漢の成楽故城の南8 里に壮大な規模の盛楽新城を造営。人を移し、野を拓いた。これに対し拓跋珪は398 年、すでに漢の平城の南100 里にできていた新平城の地に、中国モデルの首都を建設。考古学的には未確認ながら、文献には「始めて宮室を営み、宗廟を建て、社稷を立つ」(『魏書』太祖記)と。つまり、陰山南麓の盛楽(内モンゴル自治区ホリンゴール県)から平城(山西省大同市)へと、北西から南東へ移動して、中国の中央部=中原(ちゅうげん)をうかがう姿勢を鮮明に。みずから帝号も称します。
 経済的には、祖父の時代の半農半牧から主農副牧へと比重を移す。戸籍を整えて農地を与える「計口授田」の政策は、道武帝の実施による。
 三つ目は政治体制。什翼犍は若いころ、華北を制圧していた後こうちょう趙の都(河南省鄴(ぎょう))で人質に。兄の死で帰国を許されるや、鄴時代の見聞を生かし、中国式の官僚制と法律を導入、また漢人も活用し、従来の部族連合体制からの脱皮を図る。いっぽう道武帝は、諸部族を畿内・外に集住させ、同時に、これまで諸部族長がもっていた権限を国家のもとに吸収した。漢人士大夫も積極的に登用し、北魏の国づくりに協力させる。
 かくみると、道武帝は祖父の敷いた路線をひた走ったといえますが、東のかた後燕(こうえん)を滅ぼして有力者と技術者を平城に集めたり、西方を伐って東西交易のルートを開くなど、北魏富強の基礎をきづいた。
 ところで雲崗石窟のうち、初期のいわゆる五窟の大仏群は、力みなぎる充実した体躯。仏像のイメージをはみ出して、勇猛な胡族の王者の風格あり。それもそのはず、五窟本尊は北魏の5帝がモデルといわれ、このうち最大の第19 窟(写真)がほかならぬ道武帝。雄偉な体格、大きな顔、力強い表情は、北魏王朝の建国者たるにふさわしい。


 ところがこの帝王、名君であると同時に稀代の暴君。ねちこい復讐心と狂気じみた猜疑心、残酷さ。本人的には被害妄想でしょうが、群臣のほうは戦々恐々、犠牲になったもの数知れず。「こんな皇帝、早く殺(や)ってしまわねば、こちらが危ない」という空気は宮廷内外にあったでしょう。
 じつは帝の妃は、母の妹の賀が夫人。すでに夫がいたのだが、たいそうな美人ゆえ、帝はその夫を殺して自分のものにした。生まれた男子が拓跋紹(たくばつしょう)。夫人に何か落ち度あり、幽閉されたので、息子に救いを求めます。紹はこのとき16 歳、手のつけられぬワルながら、母の身を案じて父の殺害を決意する。宦官(かんがん)や宮女と通謀し、皇帝の居所をうかがうや、「賊、至る!」と叫びます。驚いてとび出した道武帝をバッサリ、という次第。『魏書』太祖記には「帝、天安殿に崩ず、時に年三十九」とのみありますが、このあたり詳しくは『魏書』道武七王「清河王紹」の条を参照あれ。
(『緑の地球』136号 2010年11月掲載)

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