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黄土高原史話<20>歴史は先取りする? by 谷口義介

 高見GEN事務局長のメールマガジン「黄土高原だより」No.259は、題して「北京の水危機(3)」。中共大同市委の副書記に誘われ、その郷里の河北省平山県を訪ねた時の話です。
 胡錦濤氏が中国共産党のトップに登りつめたのは02年11月ですが、最初の視察地として選ばれたのが平山県の西柏坡(せいはくは)。国共内戦中の47~49年の間、中共中央および解放軍総司令部が置かれていた処です。だから、胡氏の訪問に革命聖地詣での意味があったことは確かですが、高見さんは以下のように「勘繰り」ます。
 長江の水を華北に導こうという「南水北調」計画3本のうち、最初の中央ルートの完成が早くて2010年。長江―漢水―北京と結ぶ南からの水は、08年の北京オリンピックには間に合わない。そこで現在急ピッチで進められているのが、滹沱(こだ)河沿いの崗南ダムと黄壁荘ダム、その北東の王快ダムと西大洋ダムの4つを水路で連結し「北水」(つまり黄土高原の水)を北京まで運ぼうというプロジェクト。胡氏の訪問には、文字通り発破(!)をかける意味があったのでは、と。
 閑話休題(それはさておき)、と言っては失礼ながら。
 平山県の北、黄壁荘ダムの北側で、戦国時代、中山国の王都霊寿城(れいじゅじょう)址と2基の王陵が発掘されたのは、1974~78年のこと。出土文物1万9000余件のうち、選りすぐりの92件146点が81年、日本で海外初公開、参観者を驚嘆させました。
 中山は、トルコ系ともいわれる白狄(はくてき)の一部族鮮虞が建てた国。春秋時代、陝西から山西の北部を遊牧していましたが、河北に入って、B.C.414年中山武公が建国、その息子の桓公が霊寿に本拠を移し、都城を営みます。内部には、宮殿や住居のほか各種工房址も。しかし遊牧時代の名残りは、たくさん出土した天幕の部品にも表われていて、これで復元するとモンゴルの包(パオ)にそっくり。金銀象嵌屏風台座「鹿を食う虎」の意匠は、遊牧民スキタイの動物咬噛模様の流れを汲みます。青銅製の円壺・扁壺に入っていた液体は、窒素分が比較的多く酪酸とカプロン酸が含まれているので、牧畜民によくある乳酒とも。


 しかし、次第に中華の風に染まった中山の君はB.C.323年、他の戦国七雄に倣って王号を称し、天子のシンボル九鼎も揃えました。そのため隣邦、なかんづく<19>で述べた趙の武霊王にはたびたび侵攻され、B.C.296年に至ってついに滅亡。
 西柏坡を発って北京へ進軍する朝、毛沢東は「李自成の道を歩んではならぬ」と誡めた由。
 農民反乱のリーダー李自成は1644年、明朝を倒して北京に入城しますが、勝利に浮かれ、呉三桂と清軍に敗北、あわてて即位の大典を挙げたあと、滅亡の坂道を転げ落ちます。
 その轍を踏むな、と言ったわけですが、……。
(緑の地球98号(2004年7月発行)掲載分)


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