見出し画像

黄土高原史話<46>緑化のしすぎが断流のもと? by 谷口義介

 中華の民にとって黄河はまさしく母なる河。だから、ふだん黄色いこの河が澄んだといっては、大騒ぎ。08年、壺口瀑布の上流で河清現象が見られたとき、凶事が起る前触れか、あるいは聖人出現の予兆かと、古典を引きつつ、ネット上で喧(かまびす)し。まして、黄河の流れが絶えでもしたら、国家的な大問題。ところが、1972年、史上初めて起ってから、下流まで水の届かない断流が続発、97年にはピークに達し、330日間も水が涸れた。これは由々(ゆゆ)しき大事だと、2000年、政府は所管の部署に命令し、ダムから水を放出させ、なんとか流れを復活させた。
 では、なにゆえ断流は起ったか。
 まず考えられるのは、地球温暖化に起因する気候変動。多雨なところでは豪雨が増加、乾燥地では日照りが加速、という地球規模の傾向だ。黄河の源流・青蔵高原もそうらしく、近年ぐっと少雨になった、と。
 次にいえるのは、過度の取水。灌漑用・工業用・生活用として大量に汲み取る。特に黄河の水の半分以上をまかなう上流域では、灌漑に水をジャブジャブ使う。中流域でも水を抜く。これでは下流域まで流れてこない。
 雨不足+水の大量使用が原因と思えるが、これとは別に一説あり。“いま国家が大々的に実施中の「退耕還林」政策により、黄土高原の森林面積が大幅に増加。雨水が河川に流れ込む前に、木々から水分が蒸散してしまい、それで黄河の水量が減少した”と。
 イアン・カルダー(蔵治光一郎・林裕美子監訳)『水の革命』(p.155)も、中国科学院のある会議が表明したという「流量や帯水層の涵養が減少するという、植林することによる水資源への悪影響」説に賛同を示す。
 植物はたしかに水を消費する。だから大面積の緑化となると、と説得力があるような。
 しかし、段階を追って考えてみるならば。
 そもそも1949年の解放時、黄河が流れる黄土高原の森林は8%、その一部の山西省では2.4%しか覆っていない。それが78年に始まった「三北防護林」政策により、山西省では80年代の12%をへて2003年には20%まで回復した、と。98年からは「退耕還林」政策がスタートし、2000年から本格実施、という効果が出たのかも。
 しかして黄河の断流は72年からだから、政府が緑化に本気で取り組む78年以前より、それは見られた現象だ。単純推定で、断流が初めて起ったころ、黄土高原の森林被覆率は10%前後ではなかったか。
 そこで歴史屋として質問したい。山西省で10%くらいの清の時代、黄河の断流は起っていたか。遼・元-30%、唐・宋-40%時はどうだったか。2000年以上前の秦以前は50%、そのころ黄河は滔々と流れ、渤海湾へ注いでいた!
 “水収支”も肝腎だが、黄土高原では少なくとも50%くらいまでは緑化が可能ということだ。
 ワーキングツアーで行く霊丘自然植物園。落葉広葉樹の多い自然林が回復したが、山裾からの湧水量が増えている(写真)。


 清代の地方志によると、同じ黄土高原、山西省の南西側・呂梁山脈の南麓ではそれ以前から、湧き出る泉を利用した清水灌漑農耕あり。山に森林が残っていたのでしょう。
(緑の地球129号 2009年9月掲載)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?