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黄土高原史話<4>ところで、「大同湖」はその後…… by谷口義介

 北京西駅で「二鍋頭」を1瓶、7元(100円ほど)で買い、大同行きの夜行に乗り込むと、同じコンパートメントの同行者たちは、すぐ旧知の間柄。56度の北京焼酎は、効果てきめんです。 翌朝、酔眼をこすりながら駅頭に降り立ちますが、昼の植樹作業は各自それぞれ人並みに。夜は汾酒。杜牧の詩で有名な「杏花村」の銘酒ですから、飲まないわけにはゆきません。
 そんなオジサンたちの1人から、この夏、暑中見舞いあり。
 「中国のことわざに“桑田変じて海 と成る”とあるが、10万年前、大同盆地が海だったとは。で、その後どうなった?」
 天にのぼったか、地にもぐったか。 蒸発もしたでしょうし、黄土に埋もれたことも事実。しかし、川を通って海に流れ込んだというのが真相でしょう。
 五台山の南に東冶鎮盆地がありますが、そこから平巻貝・ものあら貝の化石が出ていて、太古は湖であったことの何よりの証拠。それが盆地になった のは、五台山の西側をぐるっと半周して東南行する滹沱河によって、海に流失したためです。
 同じことは、前々回で述べた「古汾渭水域」についても言えるでしょう。 この巨大な三日月湖は、上から入って右下方へ抜ける黄河の流れで消滅、そのあと汾河と渭河になりました。『水経注』(北魏時代)によると、汾河の流域には後代まで中・小の湖沼がその痕跡を留めています。
 「大同湖」の場合は、北東を向いて流れる桑乾河によって干上がりました。
 10万年前、その湖の東岸に許家窯人が住んでいたわけですが、C-14年代測定法によれば3万年前、湖の南西側(今の桑乾河の上流)には朔県峙峪遺跡が存在。人類の後頭骨の化石1点と石器1万5000点余が出土しています。野馬120個体分、野生ロバ88個体分も。これらが 主な狩猟対象でした。峙峪人の活動舞台は、大部分が山地近くの広い草原地帯で、灌木も多少まじっていた、と推定されています。
 その他、大同盆地では同じころ、北(岸)に左雲・大同、東(岸)に陽原などの旧石器時代の遺跡が点在(図)。

以上によって見ると、「大同湖」は後の桑乾河の流域まで狭まった感じです。
 そして次の新石器時代になると、桑乾河の河岸で懐仁県吉家庄、左岸10km離れた大同県水頭の両遺跡(5000年前)が成立していますから、この頃までに「大同湖」は消滅したのかもしれません。
 以上、遅ればせながらご返答まで。怱々頓首。
(緑の地球82号(2001年11月発行)掲載分)

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