見出し画像

黄土高原史話<40>都はどこに置くべきか by 谷口義介

 本誌『緑の地球』は公称つまりサバを読んで1700部発行と。このうち80部ほど中国へ送付の由。そういえば何年かまえ大同で、「『史話』、読んでますよ」と言われたことが。
 ダラダラ続いて本シリーズ、数回まえから後漢時代に入ったが、中国では前漢・後漢とは言わず、西漢・東漢と。それぞれの都が、西の長安(陝西省西安市)と東の洛陽(河南省)にあったことによる。それよりはるか昔、今の西安市西郊の鎬京(こうけい)から現洛陽市内の洛邑(らくゆう)へと都を遷した周王朝も、西周・東周と呼ばれます。もっともそれは後世の史家の便宜のためで、みずからは堂々「周」とか「漢」とか称しているが。
 ちなみに長安も洛陽も、本シリーズの考えでは黄土高原の範囲内。そこで今回は、前漢・後漢における首都選定の事情について。
 それに先立ち、まずは項羽の話から。B.C.206年、関中(陝西省中部)に入り秦の都咸陽(かんよう)を陥(おと)した項羽、ほぼ天下を手中にするが、「この地は山河に距(へだ)てられて四囲ふさがり、土地も肥沃。ここを守れば磐石なること必定」との上言を却下。故郷に錦を飾りたいとて、彭城(ほうじょう)に都する。しかしここはオープン・ランド、四方からの敵を受け、あっけなく陥落。つまり、地方出身の社長が本社ビルを郷里に建てたようなもの。そんな会社は倒産します。
 さて、B.C.202年、宿敵項羽を倒して皇帝となった高祖劉邦、とりあえず洛陽を都とし、そのまま正式な首都とするつもり。東周以来の王城の地ということもありますが、じつは自身も部下もおおむね山東省の出身で、郷里とさして遠くない。ところが或る人献言して、「関中こそは要害を占め、物産も豊か」、と関中首都論を展開する。高祖の信頼最も厚い張良も、「洛陽も山河に囲まれてはいるが、狭すぎるうえ、地味も良くない。これでは攻められたとき耐え切れぬ。これに比べて関中は天険に囲まれ、沃野千里。しかも軍馬の産地に近い」と、その説を補強する。高祖ハタと膝を打ち、西を指して出立する。つまり観念論・感情論をしりぞけて、軍事的・経済的観点から、都を長安に定めたわけ。
 では前漢200年のあと、後漢はなぜ洛陽に都を置いたのか。
 A.D.23年、王莽(おうもう)殺され、更始帝劉玄、洛陽を都とす。
 24年、更始帝、長安に遷都。
 25年、赤眉(せきび)の農民軍、長安に入城し、更始帝を降す。
 同年、光武帝劉秀、洛陽を都とす。
 26年、光武帝、赤眉軍を破り、関中を平定。
 しかしこのとき長安は、更始帝を殺した赤眉により徹底的な破壊を受け、「都城みな空しく、白骨野をおおう」という惨状。こうした状態では、かりに長安に移るつもりがあったにせよ、洛陽に留まるほかありません。
 しかも前漢末には洛陽は、長安よりむしろ繁栄。陸路・水運の便により、南方・東方の物資が運ばれる。そのうえ光武帝政権を支えていたのは、洛陽南方の南陽の豪族たち。学者のあいだには、先秦以来の洛陽王都論も根強くあった。


 そんなこんなで洛陽は、後漢の都となりました。
 しかし、外から攻められやすい地形のうえ、外戚の弊もあり、政権は半ばころから不安定。三国時代の動乱へと続きます。
(緑の地球121号 2008年5月掲載)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?