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黄土高原に殷代の都市が現れた! 遊牧と農耕のはざまで by 村松弘一(GEN世話人)

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 先日、黄土高原(陝西省北部)で新たに約3200年前、殷王朝時代の都市遺跡が発見されました(寨溝遺跡)。殷墟との関係は? 遊牧民との関係は? トルコ石はどこから来たのか? この遺跡に黄土高原文明史を考えるヒントがあるかもしれません。
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 今回は前回に引き続き30年前にはじめて黄土高原を訪れた時のことを書こうと思いましたが、5月末に大注目の考古学的発見が黄土高原でありましたので、急遽予定を変更してお送りいたします。

 その遺跡とは陝西省楡林市清澗県というところで発見された「寨溝遺跡(遺址)」です。時代は殷代末期ですので、だいたい今から3200年前、紀元前1200年頃の遺跡です。遺跡の大きさは3平方kmで、陝西省・山西省北部(つまり、黄土高原北部)では最大の殷代の遺跡になるそうです。殷王朝末期の都は、黄河下流域の殷墟ですから、寨溝遺跡は、都からはるか360km西北の辺境都市ということになるでしょう。こんなところまで殷の影響下にあったのかと驚きます。寨溝遺跡から東北へ20kmほどのところに、現在の呉堡県があります。ここは黄河が90度曲がっているところで、古来多くの渡し場がおかれていました。ここで黄河を東へと渡れば、山西省の柳林県で、呂梁山脈を越えれば太原、そして南へ行けば洛陽や殷墟へと至ります。寨溝遺跡は中原とのつながりを意識した場所につくられたのかもしれません。


 特に珍しい出土品にはトルコ石(緑松石)がはめ込まれた鳥形の青銅器や星形の青銅器、骨器があります。どれもなかなかかわいいデザインですね。では、このトルコ石はどこから運ばれたものなのでしょうか。トルコ石と言ってもトルコで採られるわけではなくて、イランなどで採掘さるものが多いようですが、中国大陸でも長江中流域にも産地があるそうです。近年、殷墟遺跡から出土したトルコ石を鉛・ストロンチウム同位体による分析をしたところ、陝西省洛南県・白河県や湖北省竹山・鄖県といった黄河と長江の間の山地で採掘されたものであることがわかったそうです(張登毅・李延祥「安陽殷墟出土緑松石礦砿初探」『文物』2022年5期)。寨溝遺跡のトルコ石も殷墟と同じ長江流域からもたらされたならば、これまたはるか遠い南方とのつながりを感じます。


 さて、以前、このエッセーで黄土高原北部の二里頭文化期(「夏王朝」)の石峁遺跡をとりあげたことがあります。こちらは4平方kmで、規模は大きく古い。寨溝遺跡とは140km離れています。だいたい東京から静岡ぐらいの距離です。両者の関係性はまだわかりませんが、今の地形を見ると、両方とも同じように黄河の支流沿いの黄土丘陵の高台の上に都市が造られているように思います。はたして、そんな険しい山の上につくられたのでしょうか。黄土の浸食溝は時間をかけて深くなるので、3200年前には、いま、写真で見るような谷はもう少し浅く、比較的容易に谷を越え、黄河に出られたのかもしれません。そして、この地はもっと森林や草原のひろがる地域だったかも知れない。寨溝遺跡の西に広がる草原には遊牧民が暮らし、寨溝遺跡では殷のトルコ石の飾りと遊牧民の青銅器が取引されていたかも知れません。新たな都市遺跡の発見は黄土高原が農耕と遊牧の境界線にあったことを改めて思い出させてくれるように思います。

 次回は当初の予定通り1996年の黄土高原の調査の旅についてお話をしたいと思います。
参考記事
https://www.afpbb.com/articles/-/3466556?cx_amp=all&act=all
 

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