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大同の協力拠点が口泉植物園に by 高見邦雄(GEN副代表)

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 大同の最初の協力拠点が市によって収用され、口泉植物園になりました。そのときは悔しくて悔しくてしかたありませんでした。今年8月、少しの時間を使ってそこを訪れて、ああ、これって理想的な結末だったんじゃないの。
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 大同における緑化協力は1992年から25年間継続しました。最初の協力拠点が南郊区平旺郷平旺村の「環境林センター」です。1995年のスタート時は3.5haでしたが、まもなく6haに拡張し、2000年に東西の幅が平均250m×南北の奥行800mの20haまで拡張しました。
 
 立花吉茂、遠田宏、小川房人、小川眞、桜井尚武などの諸先生が繰り返し訪れて、現地の技術者とともに、土壌の通気性の改善、菌根菌の活用をはじめ、育苗や栽植技術の改善をはかり、植林の現場で発生する問題を持ち帰っては、改善策を探って現場に返しました。私にとっても心休まる貴重な居場所でした。
 
 ところが2010年、驚愕の事態がおきました。大同市の計画する口泉植物園の用地として収用されることになったのです。当時の耿彦波市長と交渉し、一回り広い代替地を無償で提供されましたが、緑色地球網絡大同事務所の落胆は非常に大きかったのです。
 
 というのも、苗は種から育てるのがベストという立花先生の教えで、たとえばトネリコ(白蝋樹)は街路樹から採取した種を蒔き、年月をかけて数万本も育てました。それを市街地の道路拡幅で需要が膨らむ街路樹用に売れば、経済的にも自立できると期待をふくらませた、その矢先だったのです。
 
 2019年秋に日本大使館が主催するプレスツアーが大同を訪れることになり、取材先の1つにこの口泉植物園を考えて下見に行きました。懐かしい気持ちもありましたし、植物園がどんなものかみたかったのです。

 両隣りにあった砿区苗圃、城区園林局を加え、67haもある広大な緑地です。もとの入り口は北でしたが、幅員50mの南環西路が南側を横切ったため、それに面して南側に正門ができています。園内の通路は石畳が敷かれ、ソーラーによる街路灯が設置されています。驚いたことに人工の湖まで造られ、子どもが水遊びしていました。建設費は1.6億元(約30億円)だそう。
 
 トネリコをはじめ樹木の多くに見覚えがあります。たくさんの人びとが散策し、なかにはハンモックを吊って休んでいる人もいました。以前は郊外の農村部だったのに、ここから南東800mのところに人口30万人のニュータウンが建設され、その人たちの憩いの場になっているのです。
 
 園の中心部は「友好苑」と名付けられ、自然石の巨大な記念碑が置かれています。左肩に日本語で「環境は国境がない」と刻まれ、裏面には「ここは以前、中日協力の育苗基地であり、百万本以上の苗木を育てた。3本の枝垂れニレは当時のもの。日本側から無償で提供された」と経緯が刻まれています。
 
 その記念碑の前で記念撮影している中年グループに、どこからきたのか尋ねると、地元だ、砿務局だと答えたので、じゃあ支樹平さんを知っていますかと聞くと、「知ってるどころか、彼が砿務局の青年団書記(トップ)だったとき、自分は事務室の主任だった」という驚きの答え。
 
 支樹平さんはその後、山西省の青年団書記になり、この協力事業を始めたときの中国側責任者で、最初の協力拠点を建設するとき、自分の出身地のこの村に場所を決め、大きな援助を与えてくれました。その後、彼は山西省、河南省の共産党トップグループをへて、中央政府の大臣に登りつめ、この協力事業を支持してくれたのです。
 
 プレスツアーに参加する中国人記者たちを10月に迎えたのですが、悪天候のため飛行機が遅れ、ごく短時間の滞在だったのが残念でした。今年8月、少しの空き時間を使って4年ぶりに訪れると、前回に比べて樹木はずっと大きく育ち、園は充実してきています。ここにくれば自分たちが育てた樹木にいつでも会うことができます。あのときは悔しくてしかたなかったのに、こうなってみると理想的な結末のように思えてきます。


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