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黄土高原史話<38>「土」と「水」があってこそ by 谷口義介

 むかし、考古学の現場工作者をしていた頃のこと。若い新聞記者が発掘中の遺跡に取材に来て、「記事は足(脚)で書かなければ」と。デスクに言われたことを拳拳服膺(けんけんふくよう)しているのだろうが、まぜっ返して、「エッ? 手で書くんじゃないの?」
 それよりだいぶ後のこと。作文の苦手な|豚児≪とんじ≫に、「大江健三郎という偉い作家は、文章は消しゴムで書く、と言ってるぞ」、とお説教。ところが、「お父さん、鉛筆で書くんじゃないの?」。因果はめぐる、と言うべきか。
 ご覧のとおりの悪文ながら、私もシャーペンと消しゴム派。
 白川静先生は、細字の水性ペンで厖大な著作を。書信は筆ペンだったが、それはそれは見事な字体。「ワープロのキー打ちは、手の動きとしては単純。手で文字を書くのは複雑な作業だから、アタマの働きが良くなる」と、手書きの効能を力説されていた。(カント曰く「手は外部の脳である」。つまり手の動きと脳の働きは連動するということ)。驚異的な頭脳の持ち主で世界的な漢字学の権威だけに、書字の勧めは説得力あり。
 漢字といえば、後漢の|許慎≪きょしん≫(30~124)。『説文(せつもん)解字』は、文字の成り立ちから解説し、その字義を明らかにした最古の字書。しかし許慎は、殷周の甲骨・金文の存在を知らず、後漢の儒教イデオロギーに毒(?)されて、その字源解釈には少なからぬ誤りが。その誤解・謬説を正したのが、すなわち白川文字学。漢字に関する本だけでも、中国語訳は五指に余る。
 それはともかく、ここでのテーマは『説文』の方。|小篆≪しょうてん≫9353字のうち、「木」部に見える樹木名は、ざっと数えて140字。当時の都洛陽と前漢の都長安を中心とした黄河流域、北中国で常見する種類と考えてよい。たとえば、〈37〉で述べた「松」「柏」など。ところが、『説文』研究の大家、清代中期の段玉裁(だんぎょくさい)(1735~1815)によれば、140字中いまの何という木に当たるか不明なものが30字あり、と。つまり『説文』以降1700年、名(字)のみあって実物の分からぬ樹木が20%ほど出てきたわけだ。
 ところで、前回も引いた『詩経植物図鑑』によると、『詩経』で歌われた植物135類のうち、木本植物は61類。前漢のときできた『爾雅(じが)』「釈木」では、木の名として99種を数える。つまり北中国で知られる樹木名は、春秋期:61、前漢:99、後漢:140、そして清中期:110となる。資料の性質や植物に関する知識の発達も考慮する必要あり、この数字は単純に樹木の増減を意味するものではないだろう。ただ、袁清林『中国の環境保護とその歴史』によれば、環境の第一次悪化時期:秦・前漢、回復期:後漢~隋、第二次悪化時期:唐~元、深刻に悪化した時期:明清以降、と。かかる一般的傾向と上記の数字は、矛盾するものではないようだ。


 生前の恩師にお聞きしておけば良かったと思うこと多々あれど、その一つが掲出の文字。下に「水」と「土」があって、上の「木」が育ち、「もり」ができる。『説文』叙にいう六書(りくしょ)のうち会意(かいい)、つまり二つ以上の字を結合して一個の字形をつくり、それに伴う意味を表わすという漢字の構造法。たとえば、「日」と「月」で「明」るい。どなたの造字か知らないが、白川先生も感心されたのではなかろうか。
(緑の地球119号 2008年1月掲載)

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