見出し画像

黄土高原史話<41>高柳県のその後はいかに by 谷口義介

 今回は編集の都合で締切りが早く、この項執筆中、北京奥林匹克運動会たけなわ。
 思えばちょうど4年前のアテネ・オリンピック。
「スパートする野口みずき、歩道脇に坐りこみ手で顔をおおって泣くポーラ・ラドクリフ」。
 もちろんこの文、まくら(入話)に使っただけ。<21>「東西ほぼ時を同じくして」の本題(正話)は、B.C.428年の第88回オリュンピア祭ごろのアッティカ地方の森林破壊と、ほぼ同時期の「牛山の木」の話。前者はプラトン『クリティアス』、後者は『孟子』告子(上)による。
 以上をまくらに今回は、<36>「後漢時代の高柳県」の続きを一席。
 改めていうと、代郡高柳県は平城(今の大同)の東40キロ、陽高の南30キロばかり。前漢時代には代郡西部都尉の治所であり、古城堡漢墓群が築かれた。後漢では、北辺の基地として孤塁を守っていたところ。
 後漢にとっては幸いにも、匈奴が南・北に分裂し、平穏を得たのは一時のこと。今度は鮮卑が強大化、南下の機会をうかがいます。
 すなわち124年には、「鮮卑、高柳を寇す」(『後漢書』安帝紀)。
 ついで桓帝(147~167)の時代には、鮮卑の英傑檀石槐(だんせきかい)、「高柳を去ること北三百里、兵馬甚だ盛んなり」(『後漢書』鮮卑伝)。
 そこで後漢の霊帝は、177年、将軍夏育に万騎をつけて高柳より出撃さすが、檀石槐のため惨敗し、死者は十に七、八と(『後漢書』霊帝紀・鮮卑伝)。
 高柳は鮮卑の進入する要地であり、後漢の討伐軍もここから発していたわけだ。
 しかし三国から西晋にかけ、漢族の勢力はこの地より後退。
 ところが北魏の草創期には、再び高柳の名が現れる。
 西晋が滅ぶと、鮮卑拓跋部の拓跋圭(たくばつけい)は自立して道武帝と称し、386年、国号を魏と定めるが、その年十月、
 「帝、弩山より牛川に遷幸す。于延水の南に屯し、代谷に出で、賀驎と高柳に会して、大いに窟咄を破る」(『魏書』太祖紀)。
 そして『魏書』地形志に高柳郡の名があるから、北魏はここに高柳郡を置いていた。ただ平城(大同)が北魏の首都となり、重要性を増したため、その地位は次第に低下したのだろう。高柳の名は消えてゆく。
 唐の『通典』州郡の雲州雲中県の条に、「故の高柳城あり」と。古城址が残っていたのでしょう。


(図は大川裕子氏「漢代北方辺境と大同盆地」を利用させていただいたが、高柳=陽高でないことは、文中の通り。日比野丈夫氏「前漢代郡高柳県の遺址について」に基づく)。
(緑の地球123号 2008年9月掲載)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?