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黄土高原史話<18>二頭立てから四頭立て、そして歩戦も by 谷口義介

 馬に牽(ひ)かせた古代戦車の基本型が完成するのは、B.C.1500年ごろ、イラク・シリア・トルコのあたり、当時の馬先進国ミタンニがその担い手だった、とか。
 中国へは、その基本型が殷(商)代後期、B.C.1300年ごろ伝来。
 西アジアから中央アジアの草原を通って、はるばる殷の都安陽へ。
 甲骨文には戦車を表わす象形の文字あり、王様が車から落っこちたという記録も。
 殷墟その他の遺跡からは、車1輌・馬2頭セットで埋葬された車馬坑もいくつか発見(図参照)。


 つまり二頭立てだったわけですが、これに対し周は四頭立て。天下分け目の牧野(ぼくや)の戦いでは、その違いが機動力の差となって勝敗を決した、とも。しかし、殷の段階で周族が四頭立て戦車を保有していたかどうか、考古学的にはちょっと微妙。
 『史記』周本紀によると、周の本隊が300乗(台)・同盟軍4,000乗、迎え撃つ殷軍は兵70万(17万?)とのみ。実はこのころ殷は東方の異族の反乱に悩まされ、主力を投入。手薄になった都を背後から急襲した武王に対し、紂王は戦車部隊を呼び戻せず、やむなく歩卒のみ集めて応戦しようとしたのでは?
 それはともかく、西周時代に入ってからは四頭立てがメインに。
 周の本拠地の黄土台地では段丘が多いため、フラットな華北平原とは異なり、どうしても外側の2頭(驂=添え馬)の力を借りねばなりません。四頭立てを「駟」とか「四牡」とかいって、『詩経』などによく出てきます。
 小雅六月の詩は、西周の末期、南下して王都をうかがう異族に対し、その本拠を衝くべく出征したさいの堂々たる陣立てを叙したもの。
 「戎車(戦車)すでに安(さだ)まり、あるいは輊(ひく)くあるいは軒       (たか)く、
      四牡すでに佶(つよ)く、すでに佶くしてかつ閑(=健)し。
    玁狁(けんいん)を薄伐して、大原に至らん。」
 (第五章)
 「玁狁」とは黄土高原の奥深く住む山地民。主として・洛二水の間を南下してきたから、「大原」はおそらくその上流の陝西北部の山間の地。四頭立ての戦車は、そうした地形での迅速な展開に適していたのでしょう。
 ただし、『左伝』昭公元年の条に以下のような記事が。
 B.C.541年、山西中部の大原(今の太原)付近まで北上した晋軍は、土地の戎(じゅう)・狄(てき)が険阻な地形を利用してゲリラ戦を仕掛けるのに手を焼き、そこで発想を大転換。自らの戦車部隊を解いて歩軍に編成しなおし、敵をおびき出して打ち破った、と。原文に「これを阨に困(くるし)むればまた克(か)たん」とあるのは、相手を狭隘な谷間に追い込むということ。黄土高原に特有な侵食谷=ガリを利用しての戦法、とみるのは果たして深読み?
(緑の地球96号(2004年3月発行)掲載分)

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