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黄土高原史話<31>「馬邑の役が導火線」 by 谷口義介

  「馬」は文字どおり馬の象形。ただし甲骨文字ができたころ、体高140センチ足らずで頭でっかち、頑丈な骨格。殷墟出土の100体ばかりの観察によれば、現代のモンゴル馬に似た感じとか。「邑」は会意の字で、上のロは城壁のめぐる形、下の巴は人がひざまづく形で、あわせて城中に人の集住するさま。つまり、むら・まち・みやこという意味です。
しかして<馬>は遊牧騎馬生活の、<邑>は定住農耕社会の、それぞれ象徴とはいえまいか。
 『史記』匈奴列伝にいう。
 畜牧に随(したが)ひて転移し、その畜の多き所は則ち馬・牛・羊。……水草を逐(お)ひて遷徙し、城郭・常処・耕田の業なし。
 さて、地名としての雁門郡馬邑県。今の山西省朔県の北西に当り、大同市の南西100キロほど。漢代には、まさしく遊牧・農耕両地域が混在しているところです。
 本シリーズ<22>「天下分け目の白登山」で、一度出てきたことがある。
前201年、漢の高祖劉邦は、勇武で聞こえた韓王信を警戒し、遠く太原へ移すという厄介払い。面白からぬ韓王信、匈奴に通ずる意図も秘め、辺塞に近い馬邑へと、自ら転封を願い出る。その意を察した冒頓(ぼくとつ)単于、大挙して馬邑を囲み、両者の間を使者が往来。結局、信は匈奴に降り、兵を合わせて太原を攻め、翌年、高祖を平城(大同)まで誘い込む。とどのつまりが「平城の恥」。これより漢は匈奴に対し、実質的な服属関係に入ります。
 約70 年へた前133 年、馬邑で再び事件が起る。
 土地の豪族聶壱(じょういつ)なる者の献策を容れ、漢の武帝は謀略を裁可。
 まず聶壱、いつわって匈奴に奔り、軍臣単于に内通を約す。
 「吾、能(よ)く馬邑の令・丞・吏を斬り、城を以って降らん。財物尽(ことごと)く得可し」。
 馬邑に還って囚人の首を城下に懸(か)け、裏切りの証拠を示せば、使者より報告を受けた軍臣、十余万騎を従えて、武州(左雲県の南)の塞に攻め入ります。このとき漢は、三十余万の伏兵を馬邑近くの谷間にひそませ、今や遅しと待ち受ける。行く行く略奪しながら馬邑へ百里と近づいた軍臣、さすが英傑冒頓の孫、決してボンクラではありません。野に家畜のみ見えて牧人の影一つも無きを不審に思い、烽台を襲って漢か兵を捕らえ、策略を知るや、騎兵をまとめて長城の外へと引き上げます。一方の漢軍は、追うもならず、地団太(じだんだ)踏んで悔しがる。
 これより匈奴は和親を絶ち、辺境を侵して、盛んに略奪。武帝政府も方針を転換、大軍団を編成し、各処に遠征を繰り返す。
 馬邑の役は、漢-匈奴全面戦争の導火線といえるでしょう。
(緑の地球111号2006年9月掲載)

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