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黄土高原史話<22>天下分け目の白登山 by 谷口義介

 去る9月5日、念願の白登山へ。西麓から仰ぐと高さ300mほどに見えますが、独立峰ではなく、東に連なる采涼山の支脈で、丘尾が小高くなった感じ(写真)。その地点に、1992年建立の石碑あり(写真)。前200年、漢の高祖劉邦が匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)に包囲され、7日目にしてようやく脱出しえたところです。


 ことの発端は、韓王信の移封にあります。
 信は妾腹ながら戦国・韓の襄王の孫に当たる名門の出で、身長2m近く、かの項羽をも凌ぐ偉丈夫です。前漢が成立して5年目の春、河南の潁川に韓王として入封しますが、高祖は信が才豊かにして勇武あり、加えてその地に強兵が衆(おお)いのを警戒して、山西中部の太原に移します。北の匈奴に備えるというのが名目ですが、無論ていのよい厄介払い。むかっ腹を立てた韓王信、それならばと、より辺塞に近い雁門郡馬邑への国替えを願い出ます。この時点で、匈奴に通ずる意図があったとみてよいでしょう。その心事を見抜いた冒頓は、6年秋、大挙して馬邑を包囲。両陣のあいだを密使が往来しますが、それを察知した漢は信に二心あるを疑い、使者を送ってきつく問責。開き直った信は匈奴に降り、兵を合わせて南下、句注山を越えて、太原に攻め入ります。
 7年冬、高祖は親征して、信の軍を銅鞮で破り、信は匈奴の地に遁走。その残兵と匈奴の1万騎が再度南下して晋陽を衝きますが、漢は大いにこれを破って離石まで追撃します。匈奴は次に兵を楼煩の西北に結集。漢が一部隊をやって攻めると、匈奴はもろくも敗走しますが、これは敗走と見せかけて誘い込む冒頓の作戦に他ならず。時あたかも厳冬とて、凍傷により指を失う者、漢兵のうち十に二、三。にもかかわらず、太原にて勝報をえた高祖、全軍を繰り出し、歩兵を32万に増員して、しゃにむに匈奴を追撃、長駆して平城(大同)に至ります。後続の歩兵はまだ到着しておりません。ここぞとばかり冒頓単于、精兵40万騎を結集して猛攻をかければ、一敗地にまみれた高祖、兵をまとめて白登山に逃げ込みます。この時、寄せ手の騎馬はと見てやれば、西面が白馬、東方に青ぶち、北側より黒馬、南から赤みがかった栗毛。びっしり囲んで、蟻一匹這い出る隙間もありません。
 攻囲7日。山上に孤立した漢兵には、水なく食糧なく、今やギリギリの限界といったところ。そこで高祖に窮余の一策、ひそかに単于の正后にまいないし、その口添えで包囲の一角を開けてもらいます。ようやく主力と合流しますが、結局韓王信はとり逃がし、惨憺たる負け戦さ。一方冒頓は、悠然と馬首を北へめぐらせます。漢にとっては「平城の恥」といわれる白登山の戦いです。
 以上、司馬遷の『史記』高祖本紀・韓王信列伝・匈奴列伝の記述に拠りました。
 しかし、冒頓はなぜ囲みを解いたのか。
 父を殺して単于となった当初、冒頓に対し東胡の王は強勢を恃んで愛妃の1人を所望しますが、「隣国のよしみ」と、いとも簡単に与えています。まして戦さに関わること、正后の言とはいえ、英主冒頓が耳を貸したとは思えません。
 実は、匈奴の側にも事情あり。来援を約していた韓王信の2部将がなかなか参陣せず、もしや漢と通謀しているのでは、と疑っていた矢先です。そこで正后の言を容れ、囲みを解いたという次第。匈奴列伝に述べるところです。しかし、匈奴の鉄騎40万がたかが2部将の軍をあてにするほど、高祖にてこずっていたとも思えません。東方のなだらかな傾斜の側から攻めれば、自在に騎馬を展開できます。白登山は決して要害の地にあらず、いっきょに攻め落とすことが可能です。
 ここに一説あり、陳丞相世家に見ゆ。高祖は陳平の奇計を用い、正后に使いをやって、そのため囲みが解かれたが、その奇計は秘密にされ、世に伝聞するところはなかった、と。では、その奇計とは如何なるものぞ。
 『史記』の注は桓譚の『新論』を引いて、陳平が正后に向かい、「漢には美女多し、単于が漢を併わせた暁には、云々」と、不安をあおった話を紹介しています。しかし、これは眉つばもの。
 月並みな解釈ながら、匈奴が囲みを解いたのは、漢側から莫大な利を引き出したからでしょう。包囲7日の間に、ジワジワ条件をつり上げていったのではないか。その内容が余りに屈辱的だったため秘密にされ、さまざまな雑説を生んだのかもしれません。
(緑の地球第100号(2004年11月)掲載分)


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