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黄土高原史話<19>顔が長かったばっかりに by 谷口義介

 馬の顔が長いのは、目と口が離れていることにより、草を食べながらでも危険に対し注意が向けられるから。その結果、切歯と臼歯の間に10センチほどの隙間ができた(図)。それを利用して人間は、棒つまり銜(くつわ)(図)を噛ませ、その両端の輪に手綱をつけて操り、騎乗できるようになったわけ。B.C.4000年ごろのウクライナ、と推定されています。

 B.C.3000年ごろ同じあたりで騎馬遊牧が成立、B.C.1000年ごろ騎馬の風習は西アジア一帯に広がり、軍事にも利用。遊牧騎馬民族として有名なスキタイの文化は、前8世紀ごろモンゴル北部に起源する、とも。陰山山脈あたりまで南下してきたのが、前4世紀ごろより文献に見える匈奴。
 殷・周時代、つまり<18>で述べたごとく二頭~四頭立ての馬車が戦場の花形だったころ、華北の周辺に騎馬軍団の影はまだありません。
 戦車に代わって騎兵が戦いの主役になるのは、春秋時代をとおりこし、戦国時代に至ってから。
 趙の武霊王(在位B.C.325̃298)による「胡服騎射」の採用です。
 趙は戦国七雄の一で、晋を三分して、山西省の中~北部を領有。周囲の列強と抗争を繰り返したほか、オルドス東部の林胡やモンゴル東部の東胡との戦いも強いられました。そうした経験から、敵の騎馬戦術の有効性を知り、武霊王は導入を決意。ただしかし、単なる乗馬ならそれ以前からあった、という史料も散見します。
「いま吾まさに胡服し騎射して百姓(ひゃくせい)(民)に教へん。」(『史記』趙世家)
 こでいう「胡服」とは騎馬遊牧民の服装。全体が上衣とズボンのツーピースに分かれ、左前の袵(おくみで、袖やズボンは四肢に合った細身のつくり、腰にベルト、はくのはブーツ。中国でブーツに当たる靴(カ)は胡人がはいていた(カ)から来ている由。
 「騎射」とは、騎馬したまま駆けつつ弓矢で射ること。戦車のような地形上の制約を受けず、山谷にも出没し、何よりも機動力が勝っています。
 馬は現代のモンゴル馬に似て、体格はずんぐり。
 春秋時代、晋の強勢の一理由に馬が挙げられていますが、武霊王より数代前、趙が良馬の産地の代、つまり今の大同市一帯を領有したことも重要。豊かな草原に恵まれていたのでしょう。その東南部の霊丘県は武霊王の名に因み、県城内には王の陵墓とされる円墳も。
(緑の地球97号2004年5月発行)掲載分)


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