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常套句

順調に内容の薄いことしか書けなくなっています。炊きがちな玄米です。


いや、これが通常なのです。皆様にはどうかご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします。
改善する気はありません。と言うよりは、改善するほどの文章力や語彙力を持ち合わせていないだけなのです。


今回もとにかく長くなります。


最近は専ら卒業論文の執筆に学校の時間を割いております。地方鉄道路線について書いています。数ヶ月前に実施したGoogleアンケートがありましたね。100件近くの回答が集まり、執筆の参考にさせていただいております。ご協力ありがとうございました。卒論を書くのも、なかなか面白いものです。


山崎怜奈さんも卒論が大詰めなんですね。


卒論と長い時間睨めっこしていると、卒論がだんだん気味の悪い悪魔に見えてくることがあります。

煮詰まってきたこちらを見て、薄ら笑いをしているのです。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」と書いたのは確か川端康成ですが、僕なら「卒論の長いトンネルを抜けると楽園であつた」と後に書くでしょう。

何も面白くありませんね。受けを狙っていないのですから至極当然です。ただ、卒論が大変だなぁ、ということをちょっとお洒落に書こうとしただけです。


成績が低い理由が分かった気がします。


何はともあれ、そんな時に、意外とnoteが息抜きになります。国語の成績は悪かった僕ですが、ものを書くこと自体は好きです。起承転結や構成を意識せずに、ただペンを走らせるのも一興です。iPhoneで書いているのですが、そこは触れないということでよろしくお願いします。


今回は何について書こうかと考えたのですが、またパーソナルな話題にしようかと思います。
僕にはライトなnoteは逆に難しかった。意味不明です。
身を削るようにしてnoteを書く方が、何故か自分の性に合うのです。不思議な人種ですね。




最近、強く思っていることがあります。
noteの中でも1回触れた記憶があります。



「結婚したい」。



1年くらい前から思ってはいたのですが、最近より強く思うのです。
阿部寛さん主演のドラマは見ていません。見ておけば良かったなと、一抹の後悔。深川麻衣さんも拝んでおけば良かったとこれまた後悔。


側線で単独事故を起こしそうになっていましたので、本線に戻りましょう。


前々回触れた通り、僕の家庭環境は決して芳しいものではありません。中の下か、下の上と言ったところでしょうか。


いくらでも実父や養父の所業を暴露しようと思えば暴露できますが、今回の主題とは逸れますので雪国にでも葬っておきましょう。



2人の父を反面教師にして生きてきました。

「あんな2人にはなりたくない」



その反動的衝動とでも呼称すれば良いのでしょうか。きちんと結婚して、将来細君や息子、娘に、きちんと愛情を注げる人になりたい、と強く思うのです。


何かの小説を読んだ時に知った美しい日本語の響きを、言ってみたくなっただけです。奥さん、にしましょう。取り繕っても、ボロがでるだけです。


世の中には色々な親がいます。2人の父はまだ正常なのか、と疑ってしまうほどに悲惨なニュースが飛び交います。


だからこそ、僕は当たり前に人を愛したい。


結婚したいというのは、どちらかというと自分の為なのかもしれません。


僕はひとりでは生きられない人間です。初回のnoteを読んでいただければお分かりいただけると思います。実に寂しいものです。
不思議なことに、最近人の為に生きたいと思うのです。人の為に生きることが、自分の生きがいになることを知りました。


僕にも、お付き合いをしていた人が何人かいます。いわゆる元カノ、という人です。


今でこそ元カノを少し恨みながら過ごしている日々ですが、付き合っていたその当時は、驚く程にその人の為に何でもしたいと思っていました。
学生の身分ですので、お金はほとんどありません。それゆえできることは限られていましたが、明日もまた会いたい、というその一心でした。


毎日朝起きて、勉強して、寝て、という連綿と続くどこか退屈な日々の繰り返しに、陽だまりを与えてくれたのでした。



どこに行ったら喜んでくれるか。どんなものをプレゼントしようか。どんな言葉をかけようか。どうしたら笑顔になってくれるのか。


ただ、笑顔が見たかった。いささか大袈裟に言えば、その笑顔が生きる意味だった。


笑顔のために何でもしたいと思い、できることをしました。ひとりでいいや、と投げやりになることも多かった自分にとって、これは革命だったのです。


尽く否定されて今に至っていますが。

否定まではいかない気もしますが、破局を迎えたということは否定と同値か、もしくは近似しているという解釈をしていいと思います。


しかし、私は誰かの為に自分を捧げられることを知りました。そう思える人にいつか巡りあいたいと思います。




ただ、時に愛情を注いだ相手に、少しだけでもいいから、愛をくださいと思う時があります。これはもう仕方のないことだと割り切るようにしました。


愛は一方通行のものだと分かってはいるのですが、やはり人間は自分が一番なのです。


ここで、僕の好きなとある歌の歌詞の一部を紹介しましょう。


君に会いたい 君に会いたい
愛しています 君はどう


「君はどう」。不安になるんですよね。どうしても。
自分からの愛しか存在しないとしたら、その愛は虚無に変わってしまうと思う時があるということです。


やっぱり、愛もギブアンドテイクであって欲しいと願ってしまいます。








さて、こんな話をたまにすると、「重いな笑」みたいな反応をされることがあります。逆に、「良い奴だな笑」みたいな反応をされることもあります。比率は1:1くらいです。


僕は、人に依存しているのでしょう。



ただ、依存したい、と思える人は、おそらくその時点で僕の希望であり、夢であり、光である。


そのためにも、自分を少しでも良くしていかなければいけませんね。頑張ります。
まずは、日々のTwitterの呟きの質を上げることから始める必要がありそうですね。今のあの調子では、将来岡村隆史さんのように、幻覚が見えるようになってしまうでしょう。


それも、面白いでしょうけどね。


僕にはやはり生身の人間が合うようなので、精進します。






と、同じようなことを反復しただけの陳腐なnoteを書き上げたところで、卒論の執筆に戻ります。


noteって、英語で「メモ」の意味らしいですね。


メモ程度のことしか書けていませんが、ここまで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。





メモ、でひとつ思い出しました。

今年の11月4日月曜日、SHOWROOMの前田祐二社長がオールナイトニッポンの特番を担当されていました。
その中のコーナーで、前田さんが取っていそうなメモを想像する、というものがありまして。
僕の記憶が正しければ、その中で前田さんは、「日々の何気ないことや変化に気づき、疑問や関心を持てることが大事」という趣旨の話をされていました。


ある人の為に何かしたい、と思うまでは、その人は所詮赤の他人に過ぎなかったはずです。


しかし、ある時ふとその人への気持ちの変化に気づく日があるのでしょう。いや、必ずあるはず。


その気持ちの変化がどんな意味を持つのか、しっかりと心の中で確かめて、嚥下することが、愛の始まりなのかな?


そんなことを書きながら思いました。ちょっと気味が悪いですね。お詫びします。



読んでいただき、ありがとうございました。書きたいことが思い浮かんだら、またいつか更新します。








君が思うよりも
君はもっと美しくて


そう言うと決まって
少し膨れるけど
からかってなどいないよ

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