終わりよければすべて良しやないねん、あかんもんはあかんねん

2024.3.12 
大学卒業


無事卒業できたことによる安堵感と共に、
心に空虚が生まれた喪失感、
社会人として生きていくことへの不安、
常に何かに追われているような焦燥感、
好きなことで生きて行くことへの高揚感。

そのような、めまぐるしい感情の変遷が
慌ただしく頭の中を駆け回る。

私は、どうやら幼い頃から物事の終末や
「何かを失う」ということが苦手らしい。
状況の変化や、物事が前とは違う形になるようなことが
苦手なのだと思いこんでいたが、
それとは少し違い、
単純に私自身の心が人より喪失感を深く味わう性格なのだ。

それにより、
卒業式やお葬式、お通夜などといった
「別れ」を意味する儀式は心底苦手である。
特に、今回行ってきた卒業式なんて野郎は
前後一週間程から、しんみり野郎が
どこからともなくやってきては、
シレッと心の中に居座っている。

大体卒業式の1週間くらい前から、
「え?マジで卒業?はやくね?信じられん。
こないだ入学したばっかやん。はぁ。」
を、連呼する。
この時の心情としては、
時の流れの速さを
マジで信じられへんって感じ。
ほんで、大体入学するときであったり
その当初などは、やいやい文句を垂れているのがいつもの有様である。
あれがやりにくいこれがやりにくい
あいつとは合わへん楽しくないなど、
よく周りの人たちに血祭りに挙げられなかったな
と、思う程にひねくれベソカキ小僧になる。

そして、なんとも都合の良い私は
そんなふうに感じていた当初とは、比べ物にならないくらいに
卒業間際になると楽しくなっていることが多い。
というか毎回そう。
もうそろそろ自分の天の邪鬼さに気づいて、
先回りして行動できてもいいのではなかろうか。

それから結局仲の良い友達もできて、毎日ケラケラ楽しく過ごす。
今の時間が無限に続けばいいのにって、
思えるような時間が
足早に過ぎ去っていく。
そして終わる頃にはもの寂しくなっているのが 毎度毎度、学校生活最後のお決まりである。

そのような思いを募らせて迎える卒業式は、
意外にも涙を流さずに
いつもどおりニコニコと冗談を言いながら
日常として過ぎて行く。
だがそれが仇となり、
「もうこの日々とはおサラバか」
なんて、息苦しくなる感情を誘発させることにも繋がる。
私は、どこまでも事実の裏側を考えてしまう癖があるようだ。

それから卒業式後の1週間というと、
ポケーっとしながら
春の陽気に照らされることが多い。
「俺は一体何者なんだー。これからどうなるんだー。桜はこれから咲くというのに、僕はさっき散ったばかりではないか。こんなに皮肉の効いた季節は1年を通して春くらいだ。こんな季節永遠に曙であってくれよ。」 
なんてことを考えながら、
膨れていく喪失感に苛まれぬよう
深呼吸をして未来を想像する。
そのような侘しい時間を過ごす。

おかげで、黄昏時に
名前負けしないくらいにマジで黄昏る。

【ワーーッと苦しくなって、
「あー↴」という感嘆とともに少し苦しみから放たれる。それの繰り返し。
それをすると、たまに優しい友達なんかが
「どうしたん?」
って、41℃の湯船くらい適切な温度感で
語りかけてくれる。
それに対して
「卒業してんで。信じられへん。○○学校で良かった。」】
「へーそうなんや。」
※【】繰り返し

このやりとりを幾度か続けていくと、
さすがに誰も心配をしなくなる。
私もそこらへんでため息を辞める。私は実にめんどくさい人間である。

そんなふうに、私は終末を迎えた物事を
次のステップへと切り替えることが苦手なのである。
おそらくそれは、物事や人物、環境に対して深くのめり込むからであると自負している。
淡々と、サバサバ切り捨てられる人間になりたいと感じる一方で、
悲しみや苦しみがあるから、喜びも跳ね上がるものだと感じている。
楽しいも悲しいも、人よりたっぷり味わえる。それが私の良さであり、不安定さでもあるのだろう。 

今までの人生を通して、それを身にしみて感じることができた。
そしてひとつ、誰も得をしない情報をここに記そう 

喪失感からの立ち直りのスピードが、
3G回線より遅い私は、

もちろん失恋からの立ち直りも遅い。
往々にして。

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