古文漢文不要論について思うところ

ここ数日、芸人さん?の発言に端を発し、そこそこ盛り上がっているこの話題。定期的にこの話題は出てくるのですが、せっかく大学3年間勉強してきて、古文漢文について考えてきたので、それを書き残したいと思います。
つまり現状はこういう見解を持ってるよっていうことをここに書き記すということです。

結論から言えば、古文漢文を学校教育からなくしてしまうというのはあまりにも早計で、むしろその扱いを古文漢文を教えていく側が考えていく必要があるのではないかと考えます。

実を言うと、私自身、大学に入った時には、高校における古文漢文は選択制の科目にすべきと考えていました。要するに、芸術と同じ枠にするというカリキュラムにするべきと考えていたということです。しかし、古文漢文を選択制にする、すなわち最初からそこに興味がある生徒だけを対象にすると、ちょっとまずいことになるのでは?ということを大学2年の終わりから3年の頭に考え始め、大学3年の終わりとなった今ではやはりそうだと考えるに至りました。

まず論点を整理しておきましょう。
古文漢文不要論者の意見のおよそ共通項を取ると、「古文漢文は実社会の役に立ちにくい。したがって学校教育で学ぶ必要はないはずだ」という主張が見えてきます。確かに、「古文漢文は実社会で直接的な役に立つことがない」という意見に関しては、古文漢文を必要と唱えている側も理解しています。ではこちら側が何を言いたいのかというと、先に提示した主張の論理関係がまずいということです。要するに、この主張には「実社会で役に立ちにくいことを学校で学ぶことには意味がない」という暗黙の前提が隠されているのです。それよりももっと役に立つこと(おそらく、金融や法律関係、情報モラルなど実社会とのつながりの深いものを指すのでしょう)を学ぶ方が学校教育の果たす役割として適切だということが言いたいのだと思います。

この私の推論がおそらく正しいだろうという仮定でこの先の話を進めていくことを了承していただいたということで、この後の話を読んでいただければと思います。

結論、なぜ古文漢文が必要なのか。
それが自己を相対化する契機となるからだと私は考えています。

古文漢文というのは、かつて数多存在したであろう言語文化のほんの一部分であるという事実に目を向けてみましょう。古文の中にはかつて存在したであろう書物のタイトルが記されていることがあります。しかしそれらは残されなかったのです。それは「手で写すくらいの価値を見出せなかったから」残りえなかったとも言えます(もちろんそれ以外に、多くの写本があったが全部どこかに行ってしまったというのもありえるにはありえるのですが)。

古文漢文として現在私たちが学ぶテクストは長い時間をかけて連綿と受け継がれてきた言語文化そのものなのです。それを受容することによって、私たちは小さな命が受け継いできた文化の重みを理解するとともに、自分の存在をその言語テクストの中に位置づけることによって、自己を相対化することになります。卑近な例を挙げれば、「自己と千年前の人々との共通性や差異」「自分の考えが数百年前に否定されていたことの理解」「時代を越境する普遍的な本質への接近」などでしょうか。

具体的な例を一つ上げておきましょう。例えば『枕草子』には次のような一節があります。
「ふと心劣りとかするものは、男も女も、言葉の文字いやしう使ひたるこそ、よろづのことよりまさりてわろけれ。ただ文字一つに、あやしう、あてにもいやしうもなるは、いかなるにかあらむ。」
つまり、「男にしろ女にしろ、言葉を下品に使うことはどんなことよりも悪い事なのだ。ただ言葉一つで、良くも悪くもなるのは、どういうことなのだろうか」と述べられているのです。

ここで私たちは、自己の存在から「言語」という一部を相対化することになります。言われてみれば、言葉を大切にしないのは良くないことなのだということを改めて実感することで、古文から自分へのフィードバックが返ってくることになります。

それなら『俊頼髄脳』などの歌論や本居宣長が書いたような評論、説話とか随筆といったものだけを読んで、歌物語や作り物語の類は全く要らないのではないか?という反論が出るかもしれません。しかし、古文や漢文を学ぶことによる効果は自己の相対化であるにしても、それは人の考えを読むことによってのみ起こるというわけではないと考えているのです。

ここでいちばん強調しておきたいのは、ある文章を読むという行為は自己内対話であるということです。これは自論ですが、人は自分の身体にどれだけの言葉、文章、考えを貫通させたのかによって、その人格が磨かれていくのだと考えます。その自分の人格を磨く文章の一つが古文であり、漢文なのです。現代の文章だけを読んでいれば、人格は磨かれるのでしょうか。表面は磨かれているのかもしれません。しかし、内なる輝きがそこから生まれ出ることはあるのでしょうか。私はこの自己の成長というプロセスの中で、古文や漢文の果たす役割は非常に大きいと思っています。

これまでの高校の古典の授業では、助動詞や句法の暗記、現代語訳ができるかという、入試で問われるような知識や解法ばかりの理解に終始していて、その先にあるものに全然到達していませんでした。だからこそ、こんなのちまちま暗記して、何になるんだという鬱憤が大きくなり、結果として、古文漢文は不要であるという結論になるんだと思います。ここを変えていくことが必要となるのは確かだと思います。これから必要となる視点は、古文漢文という科目が大きな言語文化の中でどのような位置づけになるのか、それが今の自分たちの位置づけとどう関わるのかという、繋がりを模索する側面にシフトしていく必要があるのではないかと思います。

私は、将来高校の国語教師になります。
だからこそ、古文漢文を変えていきます。もちろん現代文もですが。
皆さんはこれを読んでどう思ったのでしょうか。この文章を読み、自分の意見と比較し、新しい考えや反駁を生み出す。それこそが私の言っていた自己内対話というテクスト読解の本質です。これが古文漢文でもできれば、きっと「不要」というレッテルは徐々に緩和されるのかなと思います。

もしここまで読んでくれた方がいましたら
長々と読んでいただいてありがとうございました、と一言添えておきます。


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