趣味や逮捕

俺はマジで趣味がない。やりたいことはめちゃくちゃあるけど「○○が趣味なんです~」と言えるものが一つもない。

さっきミュージックステーションを見ていたら小沢健二とかいうよく知らない小汚いおじさんがオリジナルのショート・エッセイを朗読していた。

「今、この状況でみんなマスクが簡単に作れることを知った。マスクを作ることでマスクの仕組みを知ることができるし、餃子を作れば餃子の包み方を理解することができる、多くのものは自分で作ることができる。自分で何かを作るというのは新しい時代において最強の生き方だ」

みたいなことを言っていて、まあ確かにほとんどのものは自分で作れるし、自分で作ってみてはじめて、そのものを評価できる的な節もあると俺も思った。(でも、俺はマジで音楽について筋肉少女帯と人間椅子とTHE YELLOW MONKEYしか知らないので小沢健二というおじさんの歌は一切響かなかった。)

趣味と言えるかはわかんないけど、何かをぶっ壊して中身を見たり、組み立てたり作ったりするのは楽しい。ただ、秩序なく叩き壊したり、死ぬほど適当に組み立てたりするので深い知見も再現性も得られず、毎回いたずらに破壊と創造を繰り返すやばい邪神の赤ちゃんみたいになってしまっている。

そんな中でも「高いクラフト要素」と「食欲を満たす」という趣味性と実益が合致する料理は、よいアクティビティなのでよくしている。美味しいと不味いがそこそこに判別できていれば、感覚だけでなんとなく料理はできるし、「あの味を生み出すにはこれとこれでいけるかもしれない」と推理しながらやるのも頭を使うので面白い。

料理を作ることの弊害は、作っている時点で不思議とお腹がいっぱいになってしまうことと、人から出されればそこそこうまいと思えるかもしれない料理も自分で作ると「大してうまくもない/まずい」という評価になってしまい、真顔で箸を上下させてしまうこと。

もちろんめちゃくちゃ美味しく作れる時もあるが、基本的には己に課したハードルが高すぎてイライラしながらご飯を食べている。

話はズレるが、俺は物を完成させることに全く興味がない。構想と過程が好きなだけなんだと思う。料理もおいしいものを食べるというゴールよりも食材と調味料を合わせ、隠し味でテイストに奥行きを出すみたいなことを繰り返し、何かを作っていくことそのものを楽しんでいる。もう、ほぼレゴみたいな感覚で行っている。

レゴにしたって、小さい頃によく遊んでたけど、レゴで何かを完成させた記憶はひとつも残ってない。レゴで創意工夫と試行錯誤をしまくったという記憶はある。あとレゴのクリアパーツがかっこよすぎて強く皮膚にめり込ませて体の一部にしようとしていた記憶もある。

この世にないサービスを考えたりすることもあるけど、それを実行しようとも思わないし、くだらない企画を山ほど思いつくけど、仮に実現させたらめちゃくちゃ冷めてしまうと思う。

何事に対しても結果を得るまでの過程、つまり作っていく段階を楽しんでいるだけなので、振り返った時に目に見える結果物はなにもないという状態になってしまった。(別にそれでもまったく問題はないが)

書きながら思ったが、結果に価値を見出していないからこそ、社会規範・倫理を貴ぶために必要な道徳心とかも健全に養われなかったのかもしれない。過程が面白ければ結果はどうなってもいいと思っている節が非常に強い。

俺は最終的に意味わかんない罪で逮捕されたいし、逮捕時には各種メディアに「自称、山下達郎とカエルのキメラを名乗る 28歳住所不定無職の男性」と報道されたい。議事堂前で意味わかんないデモを催して、内乱罪で死刑になるのもいい。死刑と言えば、俺は自分のお葬式のプランを完璧に考えている。もし俺が完璧に死刑になった際には、みなさんに懲罰房から特別な招待状をお送りしますね。

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