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キャリアを振り返る ザックジャパン編


あまり振り返ることのなかった時期の記憶をたぐり寄せることで、新たな発見もある。今回は僕が日本代表に選ばれるようになったばかりの時期のことを振り返っていく。

2011年8月の終わりに、初めて日本代表のメンバーに選ばれた。

当時の監督は、

「ザックさん」

の相性で知られるイタリア人のアルベルト・ザッケローニさんだった。

ザックさんは2014年6月のブラジルW杯まで日本代表を率いて、僕はその間に3試合でプレーする機会を得た。

当時の代表が採用していたフォーメーションのなかで僕は左サイドのFWの選手とみられていた。そこでレギュラーとして君臨していたのが(香川)真司くんだった。ザックさんのもとでは戦術練習に多くの時間が割かれていたが、真司くんの動きをみながら、チームのルールを学んでいった。

デビュー戦は、以外と早くやってきた。

2度目に代表に呼ばれた2011年10月、神戸でのベトナム代表との親善試合だった。後半開始時から、真司くんと交代で左FWのポジションに入ることになる。

よく覚えていているのは僕の後ろ、左サイドバックにマキ(槙野智章)がいたこと。

僕らが浦和レッズでチームメイトになる前だった。彼はデビュー戦の僕に色々な声をかけてくれていたけど、マキは足がつって、一緒にピッチにたってから23分後に交代でベンチに下がった。

ベトナム戦では前半に1点入っていたものの、攻撃は停滞していた。

そうした状況を打開したいと監督は考えたのだろう。

僕は後半の頭から、(中村)憲剛さん、阿部(勇樹)さん、栗原(勇蔵)さんと一緒に交代出場した。ただ、ピッチに立つとそこまで緊張することもなく、積極的にドリブルを仕かけられた。自分の色みたいなものは出せたかな、と感じた。試合後にも周囲からはポジティブな言葉をかけられた。

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だから、その4日後、ブラジルW杯に向けたアジア3次予選のタジキスタン戦でウォーミングアップをしながら「途中出場のチャンスはあるかもしれないな」と考えていた。

実際、タジキスタン戦は最終的に8-0で大勝しており、攻撃のポジションの選手にはチャンスがありそうだった。しかし、最終的には声がかかることはなかった。もちろん、ベトナム戦は親善試合で5選手が交代できたのに対して、公式戦であるタジキスタンとの試合は交代できるのは3人まで、という違いはあったけど……。それ以降も日本代表には招集されるものの、試合では使ってもらえない状況が続いた。

試合に起用されないのは、何かが足りないから。その理由を監督に聞きに行くことは、ヨーロッパではごく当たり前のこと。あのとき、僕がザックさんのもとをたずねていたとしても、きっと答えてくれただろう。でも、当時はそうしようとは思わなかった。

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その理由の1つは、監督と個別で話をするような経験が当時の僕にはあまりなかったから。そもそも、選手が監督のもとを訪れることは、海外と比べて日本ではそれほど一般的ではなかった。

2つ目の理由が、海外でプレーしている選手たちへコンプレックスを抱いていたから。これが大きかった。

Jリーグで何点取ろうとも、ヨーロッパでプレーしている選手たちと同じ土俵に立っているわけではないと当時は考えていた。当時の僕は浦和レッズというクラブに誇りを持っていた。でも、ヨーロッパのビッククラブにいたり、世界最高峰のチャンピオンズリーグも経験している先輩たちは、自分よりも2歩も3歩も先をいっているように感じてしまっていた。

だから、自分が試合に出られない状況を、心のどこかで受け入れてしまっていたのかもしれない。

逆に言えば、ヨーロッパでプレーするようになってからは、自分も変わったと思う。例えば、2016年の9月から、僕はW杯最終予選で4試合連続ゴールという新しい記録を打ち立てることができたけど、その前にこんなことがあった。

あの予選が始まる前の最後の試合(2016年6月のボスニアヘルツェゴビナ戦)では、ピッチの外で90分を過ごしていた。当時のチームの攻撃的なポジションの選手のなかで、ヨーロッパのクラブに所属していて出番がなかったのは僕だけだった(ケガとコンディションに問題を抱えていない選手を除く)

それがあまりに悔しくて、試合後には当時のヴァイド・ハリルホジッチ監督と話をさせてもらった。納得いくような話を聞けたわけではないけど、自分の気持ちを落ち着かせられて、監督の考えも知ることが出来た。そのやり取りは、その3ヶ月後から始まったW杯予選での4試合連続ゴールにつながったと考えている。あのときはすでにドイツのヘルタ・ベルリンでプレーするようになっていたから、ザックさんが監督だった時代に味わったコンプレックスのようなものはなくなっていた。

ちなみに、現在の日本代表には20歳前後の選手たちも多いけど、彼らは臆することなく、自分の良さや持ち味を出そうとしているし、監督ともよく話している。森保一監督が、選手とのコミュニケーションを積極的にとろうとしていることも大きいけど、若い選手たちのそうした姿勢は少し頼もしくも思うことがある。最近では20歳前後で海外に戦いの場を移す選手も増えてきている。ヨーロッパでプレーする選手にとって必要な「主張する力」を早くから身につけているということなのかもしれない。

 話を戻そう。そうした歯がゆい時期をへて、次に僕にチャンスが回ってきたのは、2013年7月の東アジアサッカー選手権(現在のE-1選手権)だった。

FIFAの定めた国際Aマッチデーではない時期に行なわれる大会だったので、当時ヨーロッパでプレーしている選手は不参加。日本でプレーしている選手の中からメンバーが選ばれた。翌年にひかえたブラジルW杯のメンバー入りにむけて、国内でプレーする選手が実力をアピールできるラストチャンスとも表される大会だった。

この大会で初めて日本代表の試合に出場して、後の代表での活躍につなげた選手は多い。大会MVPに選ばれた蛍(山口蛍)や、2ゴールを決めたサコ(大迫勇也)などがそうだ。

あのときのチームは、みんなで優勝に向けて一丸となっていたので、最終的に優勝できたという充実感はあったし、楽しくサッカーできていた。

でも、僕は3試合中2試合に先発して、ノーゴール。

僕と同じポジションで、あの大会で代表デビューを果たした学くん(斎藤学)はオーストラリアとの試合で強烈なゴールを決めた。最終的に、彼はブラジルW杯のメンバーにも選ばれている。

あそこでゴールを決めたり、強いインパクトを残せていたりすれば、代表入りのチャンスも広がったのかもしれない。でも、そうはならなかった。そこから1年弱の間も代表入りをあきらめたわけではなかった。ただ、現実的にはブラジルW杯のメンバーに入る可能性が低いことはわかっていた。

そこで僕が意識したのは、誰よりも早く、2018年に行なわれるロシアW杯にむけたスタートを切ることだった。

そのためには何が足りないのか、考えていった。

以前から探していたパーソナルトレーナー選びも本格化して、最終的には現在お願いしている谷川聡先生と出会えた。

プレー面でも、メンタル面でも成長するため、どんなに遅くとも2014年の夏までにヨーロッパのチームに移籍する、という明確な目標を立てた。そのためにできる限りのことをしたつもりだ。実際に、2013年の12月には自分の獲得に興味を示してくれていたチーム(後に入ることになるヘルタとは別のチーム)の試合を、現地で観戦した。

2014年5月のブラジルW杯のメンバー発表でザックさんが僕の名前を読み上げることはなかったが、そのあとに僕のヘルタへの移籍が決定。ブラジルW杯の開催期間中には、ヘルタでの活動をスタートさせていた。

こうやって振り返ってみても、ザックさんが監督をしていた時代には悔しい思い出が残っている。でも、そこに意味があった、と今なら言うことができる。

そもそも、僕は2012年に行なわれたロンドンオリンピックのメンバーからも落選していた。オリンピック予選ではゴールを決めるなど貢献して、メンバー入りは現実的な目標としてとらえていたのに、落選した(機会があったら、いつかこの話をここでするかもしれない)。そして、2014年のブラジルW杯のメンバーには入れなかった。同世代の選手たちが世界大会のメンバーに入るのを2回続けて外から見ることになった。

そうした経験があったから、2018年のロシアW杯ではメンバーに入って、活躍しようという想いがものすごく強いものになったのだ。

当時の実力を冷静に振り返っても、仮に東アジア選手権で活躍して、どうにかブラジルW杯のメンバーに選ばれたとしても、本大会で活躍できた自信はないし、メンバーに入れていたら、そこで満足してしまった部分があったかもしれない。

でも、選ばれなかったからこそ想いが強くなった。だから、2014年のブラジルW杯から4年後のロシアW杯までは、良いときばかりではなかったのにもかかわらず、誰かのせいにしたり、文句を言ったりせずに、走り続けられた。そして、2018年のロシアW杯では3試合に出て、ゴールも決めて、自分の目標もとりあえずは達成できた(もちろん、そこでまた新たな悔しさを覚えて、それが今のモチベーションになっている)。

だから、記録上はわずか3試合の出場となっているザックさん時代には意味があったのだと僕は考えている。あの経験のおかげで、誰よりも早く2018年のロシアW杯に向けてスタートを切ることができたのだから。


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