ZOC休止から、次のアイドルへ〜ジャニーズ、宝塚、セクシー田中さん、松本人志などの問題を通して、アイドルや表現者になることを、躊躇してしまっている次の誰かに向けて

 先日、ZOCの人気低迷についての記事を執筆した矢先、西井、鎮目、巫の脱退に伴い、公式にZOC休止が宣言された。それに至るメンバーたちの本当の出来事は、ただのファンの私からは想像の域を出ることはないので、ここで言及することは避けよう。しかし、チケットを手売りし、混乱の中で物語を造り上げ、新たなファンを獲得、またはかつてのファンともう一度手を携えて新たなアイドル像を体現しようとした彼女たちに対して、やりきれない想いのファンも多いだろう。振替公演が中止されるなど、非情な対応は、より強くZOCの終焉を認識せずにはいられないものだった。
 ZOCが特別だったのは、アイドル像の更新という特別なイノベーションによるものだった。それまでの坂道系のアイドルから、社会不適合であること、マイノリティ性を礼賛するアイドル像は、現在のトー横系などに連なる、時代の、文化を創出する起爆剤となってさえいた。だから、多くのファンは、ファンであると同時にZOCに入りたかった。私のまわりでもZOCについて語る女の子たちは、時に否定的な表現を用いつつも、皆どこかでZOCに入りたいのだという感情を覗かせていた。私は、それは本当に素晴らしいことだと感じていた。こちらも終息してしまったようであるミスIDのオーディション機能も含めて、憧れや希望の象徴として、ZOCは常に注目されていたのだ。だから、ZOCが失われることは、とても悲しく、例えようもない喪失感を感じさせるものだった。中年男性である私にとっても、それは失われた青春時代の淡い想い出のようなものではなく、あまりにも理不尽な、突然襲う事故のように、納得がいかないものであった。
 ここで私が記したいのは、この喪失感の原因が、どうしてもZOCというスキャンダルを前提とした存在への罪悪感にあるということだ。換言するならば「ZOCのスキャンダルを喜んでいたら、いつの間にか本当に壊れて無くなってしまった」そのような後悔だ。

 これは、ジャニーズ、宝塚、セクシー田中さん、松本人志などの日本のエンターテイメント分野で昨今問題となった出来事と根幹は共通したものであると考えられる。

①ジャニーズ…私も、業界の末端にいたが「そのようなこと」が存在していると誰もが知っていて、面白おかしく話していた。記者会見の記者(知らないはずがない)の、白々しい質問には嫌悪感を覚えた。しかし、やはり、ファン側もカップリングや、BL嗜好など、そのような関係性を好んでいた。忘れていけないのは、年齢、関係性、性別を問わず、本人たちの恋愛感情は我々の知るところではないし、「グルーミング」の一言で片付けるべきでない。
②宝塚…いじめ問題についてだが、ファンもそのような狭い閉鎖空間の濃密なコミュニケーションを耽美的なものとして愛好していた。昭和の少女漫画の世界観を現代においても援用し、SNSなどでそのような関係性を助長していたファンもいただろう。
③セクシー田中さん…作者本人からかけ離れたところで推測し、スキャンダルを物語として消化する。ビジネスとアートの使い古された二元論。ひどい実写化を笑うまでのパッケージ化(数字的に黒字ならテレビ局や制作会社は笑われても笑っているからよい)。
④松本人志…後輩芸人との、ただのホモソーシャルな関係性の強化、確認としての「女遊び」。そのような芸人像という話のネタ、憧れ。
 
 つまり、これらに共通するのは、私たちはこれらのコンテンツの、「後ろめたいこと」を喜んで消費していたということであり、いわば「共犯者」であるということである。この「共犯者」という言葉を大森靖子がZOCにて使用する意味で捉えればわかりやすいはずだ。加えて、私はこのような「後ろめたいこと」を悪いことだとも思っていない。①〜④や、ZOCのスキャンダルはどうしようもなく魅力的なコンテンツであることは間違いないからだ。
 
 その意味で、このポリティカル・コレクトネスの時代において、半ば定期的に炎上を繰り返すZOCは逆説的な可能性を見せていたともいえる。度重なるトラブルで、もっと早く潰れていてもおかしくなかったはずだった。それでも、やはり注目を集め、数字的な意味では落ち込んでいるとしても、今回の件もニュースでは大きく取り上げるように、ZOCが多くに人々にとって、常に気になる存在であったのは確かだ。この逆説こそが、この時代の表現の希望であった。それは、ポリコレ・ハリウッドと称されるような作品を脱色しつくす表現が蔓延する現代において、人間の本能を刺激するような、露悪的で、確かな身体性を持つ表現者としての、ZOCの強さだった。
 だから、これからのアイドル、表現者を目指す人には、そのような、後ろめたいような、エゴイズムを捨てずに、そのままつき進んでもらいたいと思う。その感情を、手放した瞬間に、取り返しもつかないほどに、人は老いていく。その気持ちを自身も表現者として、大森靖子や辞めていったメンバーたちにぶつければ良いのだ。少なくとも、誰かの本気に対して、大森靖子はそれに向かい合う本物のアーティストであることは間違いないのだから。誰も傷つかない表現なんて、あったとしても、嘘だ。
 

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