「本質的には同じ出来事に近くとも、自分の立ち位置(観点)が変われば違う感覚や選択肢が生まれる」というお話。
本日は、「ワンピース」という漫画の ’あるセリフ' に関して、「本質的には同じ出来事に近くとも、自分の立ち位置(観点)が変われば違う感覚や選択肢が生まれる」と感じたことについてお話をさせていただけたらと思います。 よろしくお願いいたします。
「ワンピース」という作品は週刊少年ジャンプで連載されている人気漫画です。私もこの作品が好きで、現在も話を追っています。コミック派です。 長期連載の作品であるためかなりの長編になっているのですが、その中でも「ドレスローザ編」というお話の中で登場する 'ある国の王様が言ったセリフ' に関して、「これってその視点が国家であるか、個人であるかで感覚が異なるのではないか?」と感じたものがあり、それをご紹介したいと思います。 これはあくまでこのワンピースという作品に対してモノ申すとかではなく、「そのセリフそのものを、このワンピースという世界から切り離した '単体の言葉' として見た場合でも」という前提でのお話になります。
では始めていきましょう。 そのセリフが登場するまでの背景を説明しますと、ドレスローザという国があり、この国が悪い海賊に突如乗っ取られてしまった所から始まります。国を乗っ取られる前までのその国の国王は、国民から絶大な信頼を得ていた王様でした。また、「戦争をしない王」として知られ、「戦争をしないためであれば他国の王を睨み殺す」くらいの信念を持っていた人物となります。 しかし、悪い海賊に突如襲われ、騙され、王の座から引き釣り降ろされてしまうのです。 その後、主人公達がドレスローザに現れ国を救う事になるのですが、その過程で敵の主要キャラクターの1人が国王にこう語りかけるシーンがあります。
「貴様の様な平和主義者では国は守れなかった」 それに対し王はこう返します。 「だが、人間であるための努力をした。殺人を犯さなければ生きてはいかんと言うのなら、私は進んで死を選ぶ。殺戮国家に未来などない」
この敵のセリフの意図としては、「国を完全に乗っ取られる前に武力を選び、我々と戦うことを選択していれば結果はほんの少しばかりでも変わったかもしれない。しかし、絶対に血は流させないという自身の信念を貫いた結果、この国は我々に乗っ取られこの有り様になっている。お前の様な平和思想だけでは国は守れない。お前のせいでこの国は終わったんだ。」という意図が込められていると私は解釈しています。 一方で、この王のセリフも理解できます。 「人を傷つけ、痛めつけ、殺すことを強いられるのなら、死んだ方がマシだ。人を殺めてしまったら '人' でなくなってしまう。」 こういうことでしょう。 これはあくまで個人的なイメージですが、このセリフは「日本人らしい、'他者のために自分が犠牲になる' といった、美しい心そのもの」を体現している様な言葉にも聞こえます。
この言葉を初めて聞いた時は、「この国王の言葉は物凄く理解できるし、人はそもそもそう在るべきだろう。もし世界中の全ての人間が心からこの様な考えや思想を持っている人達で溢れているのなら、きっと世界には争い自体生まれないのだろうな。」と感じたものです。 しかし、何度かこの章を読み返しているうちに、「あれ・・?でも・・・」という感覚を持ち始めました。 「でも待てよ?これは自分がドレスローザ国民だったらという、'自分が国の一員' という視点で感情移入して見ている故の感想だ。なら自分が '国の一員' という視点を外して考えるなら?」 ふとそう思いました。
そして考えた結果、その感覚は上述したものとは明らかに異なりました。
ここで重要なのは、これは「 '国' という単位」での観点から用いられているセリフという事です。「 '自国そのもの' という単位」でこのセリフを捉えた場合、一見とても素敵な言葉に聞こえます。もし我々の現実世界でも武力を用いなければならず、「自国 vs 他国」、もしくは「自国 vs 何かしらの勢力」という構図があったとして、「自分達が戦い、相手を傷つけ、最悪の場合人を殺めてしまう事になるならば、戦うという選択肢は選びたくない」という気持ちを抱く人はとても多いのではないでしょうか?
しかし一方で、これが「個人」という単位・観点になった場合はどうでしょうか? 一瞬にしてそれまでの見方や感覚が変わる方も多いと思います。 おそらく「個人」という観点に変わった瞬間、「僕は・私は、 '戦う' 」という選択肢を取る方が多くなるのではないでしょうか。
分かりやすい例を挙げるとするならばこんな感じです。
「AさんとBさんがいます。Aさんには家族がおり、妻と子供2人の4人家族で、1つ屋根の下幸せな生活を送っています。そんなAさんの隣の家に住んでいるBさんは、気性が荒い性格でよく怒鳴り声が聞こえてきたり、刃物や銃を所持しているなんて噂を耳にします。」
こんな時Aさんはどういった行動を取るでしょうか? あ、「引っ越す」という選択は無しでお願いします(笑) おそらくはまず、「自分の家に危害が及ぶ場合を想定し、Bさんから身を守れる何かしらの道具を自宅に備える」という行動を起こすのではないでしょうか。これは、「家族を・自分を最低限守るための防衛手段」です。当たり前の行動と言えるでしょう。実際に「戦う事になる・ならない」以前に、備えるための行動を起こすはずです。
そして次に、もし危険人物扱いされているBさんがいきなり刃物や銃を持ってAさんの家に上がり込み、襲って来たとしたらどうするでしょうか? ほぼ確実にAさんは、「家族を・自分を守るために戦う」という選択肢を取ると思います。 もっと言うのであれば、もしBさんが明らかな殺意を持ってAさん家を襲っているのであればどうでしょうか? そうなった場合、Aさん側もそれ相応の覚悟を持って自己防衛を行い、その中で反撃を強いられることもあり得るでしょう。最悪の場合、「自分はどうなってもいいから家族だけは守る!」、「相手はこちらを本気で殺しに来ている・・・。ならばこちらも刺し違える覚悟をしなければ大切な家族は守れない・・!」という決断も辞さないのではないでしょうか。
これはA家の大黒柱であるお父さんのAさん視点でのお話ですが、守るために戦うという選択肢を取るか否かを決めることが出来るのはAさんだけに限った話ではありません。Aさんの奥さんだって、お子さんだって、その選択肢を選ぶ権利があります。 奥さんなら、「ウチの旦那と子供達を守るために戦わなきゃ・・!」と武器を手に取ることもあるでしょう。 子供達も、「お父さんとお母さんを守らなきゃ・・!」と、勇気を奮い立たせて、震えながらも武器を手に取る選択をするかもしれません。
この状況下において、これらAさん側の人達の選択肢に何か間違いがあると感じるでしょうか?個人的には何も間違っていないと感じますし、「自分にとって大切な人を守ろうとする」、これは人間というより生物として誰もが持つ本能に近いのではないでしょうか。 仮に結果として、Aさん家の誰かしらがBさんを殺めてしまったとしても、それを誰が責められるでしょうか?
ここで先程ご紹介した、「だが、人間であるための努力をした。殺人を犯さなければ生きてはいかんと言うのなら、私は進んで死を選ぶ。殺戮国家に未来などない」というセリフを思い出してください。 「自分が国の一員である」という視点を通してであれば、あれだけ素敵な言葉と感じられていたはずが、「家族」という単位の視点で考えると全く感じ方が違う事に気付くはずです。 このセリフを上述した「Aさん・Bさん」のシチューエーションにあてはめ、「国家=Aさん家・悪い海賊=Bさん」として考えた場合、このセリフをAさんに対して言う事ができるでしょうか?私には出来ません。仮に自己防衛を行い、Bさんを死に至らしめる結果になってしまったとしても、ここで「戦わない」と選択することの方が私には愚かに感じてしまいます。
更には、Bさんに襲われているAさんはこんなことを言うでしょうか? 「殺人を犯さなければ生きてはいかんと言うのなら、私は進んで死を選ぶ。殺戮家族に未来はない。家族を守るより、誰も殺さず人のまま死ぬことの方が大切だ。さぁ妻と子供達よ、この状況を受け入れ死を選ぼう。戦ってBさんを殺めてしまうくらいなら戦わず、反撃せず、'人'のまま死ぬためにこの状況を受け入れよう」
もしこんなことを言う父親がいたら父親失格だと個人的には思います。
これが、「自分が国の一部であると考える 'マクロ的な視点' での感じ方」と「自分を個人として考える 'ミクロ的な視点' での感じ方」の「大きな違いと違和感」です。 「本質的な状況」は同じなはずなのにです。
上記の例は「Aさんに守るべき家族がいる」というシチュエーションでの例となりましたが、このAさんが仮に「独り身」だったとしても取る選択肢は変わらないのではないでしょうか。 いきなり襲われ、自分が命の危機に曝されている状況下になってしまったとしても、「自分自身の命を守るために '戦わない' 」という選択をする人は中々いないのではないでしょうか。 大前提としてですが、例えば「街中でいきなりちょっとした暴力を振るわれた。ここを全速力で走って逃げればもう二度と会うこともないし絡まれることもない。'この時だけ' 逃げ切れればいい」という状況下では勿論話は変わります。 決して、「程度など関係なく、自分が何かしら危ない目に遭ったら殺意を持って反撃する必要がある」と言っているわけでは勿論ありません。こういった場合は隙をついて声を上げて即座に逃げ、近くの交番や何かしらの建物に入り助けを求めるのが一番だと思いますし、反撃するにしても「殺意を持って反撃する」というレベルには至らないはずです。 ここで最も重要なのは、「自分自身が本当に命の危機に曝されてしまった時」また、「自分や大切な人を守るためにはどうしても命を懸けて戦わざるを得ない状況下」になった場合でのお話です。
(*)中には、「格闘技経験が長かったり、自己防衛手段に長けている方で、どんな状況下においても相手の命までは取らず、脅威を排除できる」という方もいらっしゃるでしょうが、決して多くはないでしょう。
ここまで長いお話をしてしまいましたが、この「起こっている出来事の '本質' は変わらないはずなのに、自分がマクロ的な視点でそのシチュエーションを捉えるか、ミクロ的な視点でそのシチュエーションを捉えるかで、選択肢や思考に明らかな違い生まれる」ということが分かったと思います。 しかし、なぜこういった事が我々の心理面に起こるのかは私は未だに分かりません。そこそこ昔からの疑問なのですが・・・(汗) しかしその中でも個人的に考えた結論としては、「どれくらい大きな集団意識の中で、自分自身をその一員として捉えているかどうか」、「その集団意識が大きくなれば大きくなる程、恐怖感は小さくなっていくのではないか」という事でした。簡単に言ってしまうと、「赤信号、皆で渡れば怖くない」といった様な感じです。 勿論これが合っているのか間違っているのか、当たらずとも遠からずなのかは分かりません。 いつかこの疑問の答えに行き着ける様な巡り合わせがあればと思っています。
最期に、どちらかというと「自分の命が懸かっている際には戦うべきだ」といった様な意見をここまで多く述べて来ておきながら恐縮ではあるのですが、1つだけまた違った観点からの考えをお伝えさせていただき、締めくくらせてもらえたらと思います。
「 '自分にとって大切な人を守ろうとする' 、これは人間というより生物として誰もが持つ本能に近いのではないか」と上述しましたが、では「王様のセリフにあるマクロ的な観点」で見た際にはこの '本能' が機能しておらず、「生物としての在るべき姿ではない、かけ離れた姿になっている」という事になるのでしょうか? そう問われると、そういう訳でもないと個人的には感じます。 「生物として争いや殺戮を犯すのではなく、それすらせず死を受け入れる」、これもまた私自身が理解できる精神性とも感じています。 「本能のままに守り、戦う」ことが正しいのか、「戦わず死を受け入れる」ことが正しいのか、究極的にはどちらも間違ってはいないし、どちらも正しくなかったりするのかもしれません。今の私にはその答えは分かりません。
人間はあらゆる生物の中でも非常に心が豊かな生き物です。生きていく中で幾つもの心と心の触れ合いを経て、単純な「感情の経験」だけでなく「精神性」もまた培い、育んでいくことが出来る稀有な生き物だと私は考えています。 そういう意味では、上記のマクロ的な観点とミクロ的な観点との間で生まれる「感覚の違い」、「選択肢の違い」、「どちらが正しい、間違っている」などというものは、「より高い精神性を持ち合わせた '人間' 」から見た場合、あまりにも稚拙で、同時に私が想像し得ない全く別の答えを導き出してくれるのかもしれません。 私の精神性がまだまだ未熟であるが故に、ミクロ的な観点では「反撃し戦う事を選んでしまう」のかもしれません。
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