無制限思考(1/17)

身体拘束なしに様々なカリキュラムを行ってくれるところは良い、身体拘束は薬物的、物理的にもとても辛いため
言語というものは本来グロテスクなものである、我々は英語やフランス語、オランダ語などが混じりあった言語を使っているが、昔はそうでなかったというわけではなく、仏教用語や大陸から渡ってきた言語を取り入れて本当の日本語など存在しない、いつでもグロテスクである
私はどうしようもなくうつ症状に悩まされているがこれはなぜなのだろうと考えるものの、脳の異常、もしくは分泌の不良、様々なことが考えられ、それをSSRIでコントロールしている。しかし同時に本当にこれが正しいのかというのは私にはわからない。とりあえず私が幸せに生きていられたらいいが、これは刹那的な幸せなのだろう。
映画を見るときにそれに集中できないのはなぜなのだろう、脳内快楽物質が集中するのに足りないからなのだろうか、それともADHDに特有のものなのだろうか。
朝起きた時に呼吸が苦しく、脳が痛いのはなぜなのでしょうか、睡眠時無呼吸な可能性を考えなっければならないのかもしれない
LoLがなぜうまくならないのかを考えた時に、人々はプレイスキルの向上を上げ、座学を軽視するが、私はその逆でwikiなどを見漁って満足し、プレイすることを置き去りにしているのではないだろうか。
私は様々な存在を感知しているが、これはオカルティズムを信じているからなのだろうか、私は神道と同時に仏教を信じ、同時にキリスト教を信じているが、脳を切り替えていると感じる。1984年に二重思考という言葉があるが、キリスト教と科学を同時に考えるときには私は二重思考的になっている。神が地球を作ったのを信じると同時にビッグバンによって発生した超高熱高圧空間から低温に移行し、塵がまとまって星を形成し、海の中で自然発生した生命が様々な圧力を受けながら淘汰したり進化したりを信じている。これはダブルシンクだ。
私は常に脳内にいろいろなものを飼っているように思える。これは喜怒哀楽というものなのだろうが、喜怒哀楽の割合によって人格が変動しているのに私は恐怖を覚えることが無いと言えない。人格が不変であるということ自体が妄想であるのは確かにそうだ、脳に深刻なダメージを受けた場合の人格変容は存在する。しかし、喜怒哀楽という幼少期に分化した感情によって私が変化するというのは何とも不気味だ。
そもそも私を定義する必要があるかもしれない、4つの窓によると私が知っている-知らない、他人が知っている-知らないによって4象限に分割できるのだが、私はそのうち2象限しか見れていない。他人は私をどのような窓で見ているのかが非常に気になる。
今ブレードランナーを見終わったが、人に限りなく似せて作られたものは本当に人ではないのだろうか、個人的には人が神の姿によって似せて作られたという聖書の内容を読んだ時に区別する理由が人が神によってつくられたからという宗教的特別視にあるのかもしれないとふと思った。しかし、それはそれとして強大な力を持つアンドロイド、それも殺人をしているのは確かに処分-もしくは逮捕しなければならないのはそうだ。
アニメをしばらく見ていないと思ったが、前クールを見てないだけで今期はメタリックルージュを見る予定だった。しかしどれほど追えるのだろう、私は飽きやすすぎるのかもしれない。
頭の中に出てくる文章をただただ書きだしてみるだけでも比較的精神は安定する、しかしこれを議論に用いるのは全くよくない。Twitterはある意味脊髄反射的にツイートできるのがとても恐ろしい。こうやってあまり見られないnoteに書くのが良い。
頭の中はワードで常にあふれている。単語の羅列のこともあれば文章になることも多い。私は頭の中に出てくる言葉に圧倒されて何もできなくなる、言葉とは呪いだ。言葉というのは葉っぱなのだ、葉っぱは無限に墓石に積み重なる。あの世でも私は言葉を紡ぐことができるのだろうか。
詩を書いてみたいとふと思った、神よ私をお許しください、貴方様は勤勉に働けと申されるでしょうが私は働くことができないほど鬱に襲われています。神よお許しください、私は今の環境がダメと認識しながら変えることができません。神よお許しください、私は変えるために選択した施設ですら休んでしまおうと揺さぶられてしまうことがある人間です。

満足したかも、以上

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