日記(4/9) 私たちはなぜ死んでいないのか

 自分の周りにいる人には精神的に病んでいる、もしくは病んでいるが治療中、の人が多い。そういう人間でTLを構築、もしくはdiscordのサーバーを構築しているために我々は死の話題に漸近している。死にたい、苦しい、と未来が見えないことばかりだ。
 その環境を構築している自分も同じような存在と感じる。治療においてなんとかなっているものの、いつ電車のホームに飛び込む衝動に突き動かされて肉片になるかがわからない。楽しいことがあるとその時は楽しいのだが、すぐに不安定になる。自分はうつ病にASDとADHD、不眠症と様々なものが襲ってくる。しかし、私は逃げられていない。死というものから。

 一度友人たちと一緒に死にたいなと感じたことがある。しかし、集団自殺はそれ自体が殺人行為に近い。なぜならば自己決定は状況によって捻じ曲がるからだ。故に1人で逝くしかない。腕を切ることはできる。しかし、それでは私の苦しみは無くならない。安定薬でごまかすことはできる。だがそれでは根本的に解決することはできない。

 人生で逃れられないものを死と税と表現したイギリスのことわざがある。だが、ならば我々は死ぬことによって税(ここでいう税はお金以外にも労働などを指す)から逃げようとしないのか。
それは繋がりではないかと推測する。ここでは気持ちが常に死へと向かっていると仮定する、重力のように。友人、家族、好きなコンテンツ。それらが生存に対して我々を死という方向にかかる力から引張力で自分を中間点に固定している。紐につられた重りを思い浮かべて欲しい。重りが自分だ。重力が死への引力で、紐が友人や好きなコンテンツだ。
 さて、死への引力が人によって、かつ状況によって異なることは否定することはないだろう。元気な人が突然自殺してしまうのは紐が十分でないのに一気に引力がかかってしまったからだ。私達のような存在は死への引力について慣れてしまっている。故に紐を作ることを無意識にやっている。新しいコンテンツでなくとも自分が好きなコンテンツを愛し続け、友人を大切にする。

 ここで最初に戻る。死というものから逃れられないのはなぜか。それは楽しみを持っているからだと私は考察する。死は確かに私たちをすべての苦しみから解き放つが、同時にすべての楽しみを放棄するということでもある。先ほどの例えを用いると、紐を切らないと死には落ちれないということだ。もちろん、死への引力が強まれば落ちるだろうが、その時も紐が千切れる時だ。そして我々は紐を常に見ている。楽しみを常に見ている。それはどこからか。死への引力に引かれている下から見ているのだ。そういう時に重りから見た紐は落ちないように支えている存在なのだ。紐は死という引力から支えているのだ。故に引っ張られているときには死を考えてしまう。
 これはただの一考察に過ぎない。

 なんだかんだ私はまだ生きようともがく。これが正しいことなのかはわからない。でも、まだ好きなコンテンツに引っ張られてはいるのだ。友人に引っ張られているのだ。




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