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【試し読み】『優生保護法が犯した罪(増補新装版)』(1)

国際女性デー特集

現代書館フェミ本試し読み⑤

3月8日の国際女性デーにちなんで、現代書館のフェミニズム関連本をご紹介しています。5冊目は2018年2月に増補新装版として刊行された『優生保護法が犯した罪』です。*初版は2003年に刊行。

 優生保護法(*編集部注:1948年制定。1996年に母体保護法に改定)は「不良な子孫の出生を防止する」という目的のために、強制的な不妊手術を合法化していました。
 この本の中には、 子宮や卵巣を摘出された、 障害をもつ女性の話も収録されています。 「劣等な人間」 という言葉によってナチス・ドイツが人間を差別化したのと同じように、 日本の優生保護法も、 「不良な子孫」 という文言によって人間を差別化し、 間接的な形でではあれ、 様々な人権侵害をさらに広範囲に正当化していたと言えるでしょう。 (市野川容孝さんによる「はじめに」より)

 女性の「産む」「産まない」を考えるとき、様々な立場が交錯します。そして、それらが「排除する側/される側の対立」と表されることも、多々あります。

 しかし、日本では、強制不妊の問題をめぐり、多様な人々が「共闘」した貴重な歴史があります。本当に闘うべきは、生殖、つまり「個人の生き方」を勝手に決めつける国家や法律だと。

 そんな人々の経緯が丁寧に記された、フリーライター・大橋由香子さんによる章を、今回ご紹介いたします。

「産む産まないは女(わたし)」が決める
そして、「産んでも産まなくても、私は私」

*この文章は2003年に書かれたものです

 「優生手術に対する謝罪を求める会」 (以下 「求める会」 と略す) の活動を振り返るとき、 優生保護法をめぐるさまざまな運動の積み重ねを思い起こさずにはいられない。 とくに、 いわゆる 「女性グループ」 と 「障害者グループ」 の何回にもわたる話し合い、 批判と反批判、 そして共同作業の延長線上に、 「優生手術に対する謝罪を求める会」 の活動があると言えるだろう。

 それは、 「グループ」 ごとのやりとりにとどまらない。 むしろこの活動に関わる一人ひとりが、 「産まない」 「産めない」 「産む」 ことをどのように考えたり感じたりし、 どのような体験をしてきたのかを抱えながら、 法律や制度に向かっていったプロセスだったと思う。

 「求める会」 の前身が 「母子保健法改悪に反対し、 母子保健のあり方を考える全国連絡会」 そして 「なくそう優生保護法・堕胎罪、 かえよう母子保健全国連絡会」 (以下、 全国連絡会) だったことは、 217頁にあるとおりだが、 ここでは 「全国連絡会」 だけに限定せず、 その周辺の動きもふくめて、 現在の 「求める会」 の特徴を形づくっていると考えられる出来事や議論の中身を紹介してみる。

 当然のことながら、 客観的な通史ではなく、 「SOSHIREN女(わたし)のからだから」 (96年までは 「阻止連」) という一女性グループのメンバーでもあり、 「求める会」 にかかわっている私から見た限定つきのものになる。
 
 「全国連絡会」 は、 日本の人口政策に対して、 さまざまな立場から異議を唱えていた。 皮肉なことに、 優生思想に根ざしたこの国の差別的な人口政策のおかげで、 障害者解放運動、 女性解放運動、 自治体労働者の組合運動、 臨時職員の運動にかかわる人、 医療関係者などが同じ場に集まることができた。

 ここで、 「全国連絡会」 の名前に出てくる三つの法律の関係を見ておこう。
 1868年に明治政府がいち早く堕胎の禁止令を出し、 1880年に刑法に堕胎罪を規定してから、 21世紀の現在まで、 堕胎 (中絶) をした女性は処罰の対象とされてきた。 しかし、 優生保護法 (1948年) にあてはまる場合のみ中絶が許されるという二重構造になっており、 それは優生保護法が母体保護法と変わった1996年以降も引き継がれている。

 つまり、 原則として、 妊娠したら女は産むべき、 中絶してはいけないと堕胎罪で定めたうえで、 優生保護法 (母体保護法) にあてはまる場合は中絶を許可する――これが、 二つの法律の関係である。 そして、 優生保護法は 「産むべきではない」 という人間を国家が規定して、 彼女/彼らには中絶も不妊手術 (卵管結紮、 パイプカット) もできるし、 場合によっては本人が望んでいなくても強制力を用いて中絶や不妊手術をさせていた。 (優生保護法の前身は1940年にできた国民優生保護法である。)

 一方で、 1965年にできた母子保健法は、 子どもを産み育てるということに鑑(かんがみ)て、 女性のからだ (母性) を保護しようという法律。 次代を担う子どもたち (=将来の労働力) が 「健全に」 育つためには、 妊娠中の女性のからだの健康管理が大切だし、 赤ちゃんが生まれてからは乳幼児健診を通じて 「ちゃんと」 成長しているかどうかチェックすることが大事になる。 戦時中にできた妊産婦手帳を前身とする母子健康手帳も、 母子保健法に定められている。

 「早期発見・早期治療」 という一見 「よいこと」 を通じて、 障害や 「異常」 のある子どもたちを振り分けたり、 母親たちの育児不安をあおる結果になったりもしている。 優生保護法と母子保健法の理念が合体したところに、 一部の 「障害」 を妊娠中にチェックできる羊水検査などの出生前診断技術ができると、 今度は 「不幸な子が生まれない運動」 など胎児段階での 「生命の質の管理」 も生まれてきた。

 このように、 堕胎罪―優生保護法―母子保健法は、 第二次世界大戦前から戦後を通じての人口政策 (量の調節と質の管理) の中心的な法律=行政なのである。
 しかも、 堕胎罪の 「女は産むべし」 というイデオロギー、 母子保健法 (行政) での母と子をセットにした考え方など、 「女は子どもを産んで初めて一人前」 という常識が根強く生きてきた。 こうして、 障害のない女には、 子どもを産むこと・育てることが期待され、 強要される。

 そのなかで、 「産めない」 女性は 「石女(うまずめ)」 として差別され、 中絶を選ぶ女は 「鬼のような女」 と非難され、 ともに肩身の狭い思いをさせられてきた歴史がある。 女性解放運動は、 産まない女性が差別されない社会、 産むか産まないかを女が決められることを要求してきた。
 
 さて 「全国連絡会」 ができるきっかけとしては、 1982年の優生保護法改悪 (経済的理由を削除して、 実質的に堕胎罪を機能させて中絶を受けにくくする動き) への反対運動がある。 

 優生保護法改悪反対運動のなかでは、 「産むのは私たち、 産まないと決めるのも私たち」 「産む産まないは女(わたし)が決める」 などという主張を通じて、 女性解放グループ、 労働組合や草の根の反戦・市民運動に関わる女たちが、 選択の自由、 自分で決めることを求めた。

 それは、 避妊手段がないなかで、 戦前は 「産めよ増やせよ」 と赤ん坊を産み育て、 戦後は避妊が普及する前に人工妊娠中絶によって子どもの数を減らし経済復興を成し遂げるという形で、 いつも国策を担わされ、 人口管理政策のターゲット (対象) にされてきた歴史と現実に対しての、 「自分たちが決める」 「選ぶ」 という女たちの願いであった。

 しかし、 「産む産まないは女わたしが決める」 「選ぶ」 という主張には、 選ぶことさえ許されない人たちの存在を無視しているのではないか、 という反発があった。 「自分たち障害者は、 そもそも産むか産まないかを決めたり選んだりする自由が奪われている」 「優生保護法において障害者の存在そのものが否定されていることをどう考えるのか」 という批判が、 障害者グループや介助者たちからなされてきた。

 胎児に障害がある場合は中絶できると法律で規定する 「胎児条項」 は、 82年の優生保護法改訂案には登場しなかったが、 70年代前半に 「胎児条項」 新設の改悪案が出ていた。 産むか産まないかを選べることを求める女たちの声 (それは胎児の状態にかかわらず、 そもそも産めないときの中絶をさすのだが) は、 障害ゆえに自らの存在を否定されてきた障害者たちに、 「胎児に障害があったら産まないことを選ぶのか!?」 という疑問と憤りを呼び起こした。 

 こうして、 後に研究者たちから 「女性グループと障害者グループの対立」 と記述されるような状況が、 70年代にひき続き80年代にも生まれた。

 しかし同時に、 「対立」 は、 人口政策を行う側にとって好都合なもので、 むしろ運動を分断するものである、 お互いの立場や状況の違いを認識しあいながら、 一緒に行動していくことが大事なのではないか、 という問題意識も80年代には芽生えていた。

 優生保護法から 「経済的理由」 を削除しようという動きは、 運動の成果もあって、 ひとまずおさまった。 反発の大きい経済的理由の削除や胎児条項新設など優生保護法に手をつけるのではなく、 今後は母子保健法を通した子産みへの管理が厳しくなると考えた人々によって、 「全国連絡会」 がつくられていった。 「全国連絡会」 は、 「対立」 を乗り越え、 一緒に行動していこうという問題意識に支えられていた。

  また、1986 年に 『ヴァンサンカン』 という雑誌に載った 「よい血を残したい」 という差別記事に対して、 優生保護法改悪反対運動にかかわってきた障害者グループ、 女性グループが一緒に糾弾闘争を行ったことも、 その後の連携やネットワークづくりに大きな意味をもたらした。

 こうして 「全国連絡会」 は、 母子保健法や優生保護法をめぐる問題を糸口にして、 女性グループと障害者グループが顔を合わせる場になっていった。
 
 80年前後のころから、 障害者グループ、 とりわけ障害をもつ女たちが、 子宮摘出のことを語りだした。 月経の介助が大変だから、 妊娠したら大変だからという理由から、 本人の気持ちを無視した手術が行われている事実が明らかになっていった。 摘出しなければ施設に入れないため、 自ら進んで受けるような状況に追い込まれたケースもあった。

 優生保護法では 「生殖腺を除去することなしに」 行う不妊手術のことを規定しているので、 こうした子宮摘出は、 優生保護法にすら違反している。 しかし、 障害者は子どもを産むべきではないという優生保護法の考え方が、 子宮摘出を許してきてしまった。

 一方で、1980 年に表面化した富士見産婦人科病院事件に象徴されるように、 医療の現場では、 女性患者の子宮や卵巣が軽く扱われ、 医学的な必要性のない摘出手術がなされていた。 富士見病院ほど無茶苦茶ではないにしても、 子宮筋腫が一定の大きさ以上なら、 本人の自覚症状や気持ちに関わりなく、 子宮を摘出したり、 これから子どもを産まないならもう子宮は必要ないだろうと言われて摘出されたりするケースもあった (注) 。

 さらにこの時期、 人工授精や体外受精などの生殖技術が次々と開発され、 なかなか妊娠しない不妊の人への 「福音」 として、 技術が宣伝され利用されるようにもなっていった。 しかし、 生殖技術を実際に利用する女性たちは、 親戚や周囲の人、 そして医療関係者の心ない言葉に傷つけられていた。 正確な情報が得られず、 治療の副作用やなかなか妊娠しない現実に心身ともに疲れている人も多い。 彼女たちは自助グループ (フィンレージの会) をつくり、 活動を始めていった。

 女のからだ、 子宮や卵巣、 「産む」 という機能が、 国家や法律、 家父長制、 医療など、 さまざまなものによって支配・管理され、 搾取され、 傷つけられている。 抑圧の現れ方は異なっているけれど、 その違いによって対立したり反目したりするのではなく、 共有できるところ、 一緒にできることを探っていこう……次第にそうした気持ちが強くなっていったように思う。

 そうした試みはさまざまな場で、 いろいろな人によってなされていった。 「全国連絡会」 もその一つだろう。 私がかかわった阻止連は、 八四年から国連の人口会議に対抗する民間女性グループによる 「女と健康国際会議」 で堕胎罪・優生保護法の問題点を訴え続け、 その流れは、 94年のカイロの 「人口開発会議」 NGOフォーラムにもつながっていった。

 そして、 九五年北京の 「世界女性会議」 のNGOフォーラムでは、 DPI女性障害者ネットワーク、 阻止連、 フィンレージの会が一緒に主催して、 「優生保護法って何?」 というワークショップをもった。  (中略)

 ワークショップでは、 日本の女たちの訴えのあと、 会場から次のような発言があった。

 「私は中国の産婦人科のドクターだが、 日本の九州の大学医学部の産婦人科で、 一六歳の障害をもつ患者さんにあった。 その子の父、 母、 祖母が 『先生、 この子の子宮はいらないです』 というので、 私はびっくりした。 『まだ16歳で将来どうするの? 母になる権利は?』 と陰で聞いたら、 『中国と日本は違うよ。 日本には優生保護法がある』 と言われた。 だれも母になる権利を奪うことはできない。 私は、 彼女の問題は絶対に許せないと思いました」

 「オーストラリアで、 意志をうまく言語化できない人たちに、 セクシュアリティや自分のからだをケアすることを伝える教育をしている。 オーストラリアでも、 子宮摘出とか、 不妊手術、 避妊薬などが、 障害をもつ女性に対して使われている」
 
 このワークショップでは、 障害をもっていて子どもを産んだ女、 子どもを産まない女、 障害がなくて子どもを産まない女、 産んだ女、 不妊のために子どもを産まない、 産めない女、 などなど、 実にさまざまな女たちが参加していた。 立場や状況によって、 その女に国や社会が期待する役割は違ってくるし、 強制される生き方も異なる。 しかし、 そうした勝手な期待や強制こそが問題であり、 それをなくし、 一人ひとりが自分の生きたいように生きられること、 どんな自分であっても自分を大切に、 愛しく思えること、 それが大事なのだということを、 感じ合えることができたような気がする。
 
 1996年に優生保護法から優生部分がなくなり母体保護法になった。 優生保護法の何が問題だから法律を変えたのか、 どこがどう差別だったのか、 優生保護法下でどのような人権侵害がなされたか――こういった検証は全く行わないまま、 国会も厚生省 (現、 厚生労働省) も知らん振りをしている。

 これに対して、96 年以降、 優生部分を削除するだけでは不十分であり、 堕胎罪―母体保護法―母子保健法という人口管理政策の発想そのものが人権侵害なのだということ、 出生前診断技術が開発されることで胎児段階での障害をチェックするのは新たな優生思想になる危険があることを、 それまでの運動にかかわってきたグループや個人が訴えてきた。 このような流れの一つとして、 「求める会」 の活動が発展し、 さらに新しい出会いが生まれている。 

 「求める会」 とはまた別の流れで、 1999年には、 「母体保護法改訂を考えるネットワーク」 というゆるやかなネットワークができた。 これまでの優生保護法をめぐる運動では、 あまり一緒に行動することのなかった障害児の親たちも参加している。

 様々な流れのなかで、 いろいろなグループや、 グループを結ぶネットワークが生まれていく。 メンバーの顔ぶれは、 その時々で入れ替ったり、 新しい人が加わったり、 縁遠くなってしまう人やグループがいたりする。 みんなそれぞれの生活や活動のテーマがあるので、 当然のことだと思う。

 産むことや生まれてくることを奪われたり、 逆に産むことを強要されたりすることなく、 多様な生き方、 人生が尊重される社会をめざしているという意味で、 これらの流れの底流には、 共通する思いがある。

 決して簡単なことではないけれど、 産んでも、 産まなくても、 産めなくても、 私は私、 と肯定できる社会、 どんな 「私」 でも、 かけがえのない存在として尊重される世の中をつくっていきたいと思う。

注 M・ダラ・コスタ著 『医学の暴力にさらされる女たち』 (勝田由美他訳、 インパクト出版会) 所収の解説 「日本における 『子宮摘出』 について  産婦人科医療と優生思想の連続性」 (大橋由香子) 参照。

(おおはし・ゆかこ………フリーライター)

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