【試し読み】 平井玄『鉛の魂:ジョーカーから奈良の暗殺者へ――怨みが義になる』
路地裏の批判的知性とでもいうべき視点と感覚を持って音楽・政治・社会を彷徨いながら批評を行ってきた著者。
自らのがんサバイバーとしての身体を探索し、地球という惑星規模で浮上しつつある資本主義の「壊死」とそこからの「出口」を見つめる。
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■地球年代記
さて。
生きかえったつもりで書いてみようと思う。
生きかえる――なんてね。じつはそう大げさな言い方でもない。
この4年間で3回も肝臓がんの開腹手術を経験したからだ。お腹の真ん中あたりL字型に30センチ近く深いレーザーメスの傷痕が残されている。さながら月面のクレーター。
このルートを往復して3回ガバっと皮膚をめくって繰り広げられた(らしい)体内冒険活劇。
完全麻酔だからなにもわからないが。はたから見ればこの4年間の私は死んだも同然だった。
肝細胞がんステージⅣの5年生存率は大ざっぱに4.5%(医療サイトGemMed2021より)。
すでに4年前にステージⅣである。とりあえず今は息をしているのが不思議でさえある。
これは医学の分子生物学的転回というべきだろうか。
そういう生命の無言劇がこの連載の一つの伏線になるのかなと思う。
DNAがどれほど加工されようと、人の生にはコピーペーストも再起動もない。ただ1回限りの即興劇である。
カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を今年3月に退院して読んだ。
すぐそこにある未来。臓器提供のために作られたクローン人間たちのコロニーと海岸に続く田舎町の悲しくも静謐な物語である。レイ・ブラッドベリ『火星年代記』がイギリスの町にやってきたという趣きがある。隣町で秘かに生きたクローンたちの青春譚だが、書かれてすでに16年が経つ。もうこれはSFじゃない。
ああなんかこれはオレみたいだ。
遺伝子改造された抗ウイルス薬やガンの血路を断つ分子標的薬が全身の細胞を浸潤する。
つまり私はゲノム・レベルで改竄され再編集された霊長類亜種である。
自分はSFを生きているんだと感じる理由だ。『火星年代記』のエレジーはイシグロの眼差しに引き継がれた。彼の『日の名残り』で滅びゆく貴族たちを執事たちが見る眼が、さらにクローンの少年少女に憑依する。クローンたちは何回か臓器移植されると廃棄されてしまう。その黙示録の眼がこちらにまで転移するのである。
私たちは「地球年代記」を生きている。
「人新世」という言葉はなんだかおこがましい。人が傲慢に地球を滅ぼそうが、宇宙にとって人類史や第三惑星の消滅はゴミの焼却でしかない。生存率4.5%の一人の眼には、1960年代のドタバタな新宿も、旧赤線の裏通りもフリーター人生も、赤に黒の混じった革命的熱情も、ガン・キャリアーの2000日でなにもかもが「地球年代記」の蒼に彩られて見えるようになった。どうやら火星に水はないようだが、今この時間が、海に沈みゆく列島で一人の男系極東人が腫瘍に喰われる前のつかの間の静けさなのか、
それとも長い夏休みに似た寛解の時間に入ったのか、
私にはまるで定かではない。
■ハーレムの真夏
まあそんなこんなで、いきなり『サマー・オブ・ソウル』の映画でいこう。
1969年の6月29日から8月24日までの日曜日の6日間、ニューヨークの黒人街ハーレム、マウント・モリス公園で開かれた無料のコンサート「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」の記録映像である。
ついに観た!
そしてそして切なかった。
この映画のことなら100時間だって喋りたおしたい。
コロナだろうが、ガンだろうが、かまわず久しぶりに映画館に足を運んだのである。
そのことを書こう。
スティーヴィー・ワンダー、B.B.キング、マへリア・ジャクソン、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、ニーナ・シモン、スライ&ザ・ファミリーストーンなどなどなど。
ブラック・ミュージックの夜空に輝く星たちが、いつ何が起きるかわからない黒人たちの鉄火場ハーレムの中心地、後にマーカス・ガ―ヴェイ公園と名を変える場所で歌い踊る。
そのドキュメンタリーである。半世紀にわたって眠っていた映像が蘇ったのである。
69年の秋、当時まさに黒人音楽に向けて爆進していた極東少年はこのニュースを小耳に挟む。『ニュー・ミュージック・マガジン』のニュース欄だったか。挟んだがそのまま脳の襞に畳み込まれて50年過ぎる。
同時進行する青空の下のウッドストック・フェスに大した興味は湧かなかったが、ハーレムで起きることは想像がつく。買売春と薬と暴力に溺れた三国人ヤクザと女たちの息遣いがベニヤ板を通して夜ごと聞こえてくる。そんないかがわしい裏通りに暮らすガキにはsummer of loveなんてどこ吹く風である。マウント・モリス公園から96マイル、車で2時間の草原で開かれた音楽祭のほうは8月15~18日の3日間で約50万人。黒人街のsummer of soulは6日間で約30万人といわれる。
ハーレムの音楽祭にはアルバート・アイラ―もマイルス・デイヴィスも出ていない。
ミンガスもいない。ローチだけが叩く。ソウル系の顔は多いが、ジェイムス・ブラウンもジミ・ヘンドリックスだって出ていないのである。両方のフェスで顔が見えるのはスライ・ストーンのグループだけだ。
それがなんで、50年後に観る者の頭脳をこれほど加熱するのか?
往時のハーレム共同体が孕んだ深みがギラっと覗くからだ。
冒頭から当時ニューヨーク市長のジョン・リンゼイがスクリーンに現れる。前日の6月28日からマンハッタン南部のグリニッジヴィレッジではストーンウォール暴動が続いている。ゲイたちの反乱だ。68年にキング師暗殺、貧者の行進、ロバート・ケネディ暗殺、シカゴ民主党大会衝突と続いたという60年代ナラティブを繰り返すのは、もういいだろう。
勘弁してほしい。その先の先を見抜くためにこの連載はあるんだから。
いくつかの記録だけを列挙しよう。ブラックパンサー党はこの年すでに党員5000人を超え全米に支部は40に達し機関紙発行部数は40万部といわれる。議長ボビー・シールがシカゴ騒乱で起訴されたのは3か月前の3月20日。ただ一人分離され独房にいた。
リンゼイ市長は共和党員である。大統領リチャード・ニクソンの配下だ。
FBI長官エドガー・フーヴァーによる対敵諜報行動計画「コインテルプロ」は黒人運動に敵対して全力で発動されている。その中心がハーレム。4年前に暗殺されたマルコムXを現場でガードしていた側近もじつはFBIの潜入者である。もっとも彼は接するほどにマルコムに本当に惹かれていく。追撃を防ぐために思わず身を投げたという事実が明らかになったのはつい最近だ。FBIがnation of Islamニューアーク支部を操って襲撃を誘導した傍証はもはや山積みになっている(Netflix『マルコムX暗殺の真相』)。
下ってフェスから3か月後、1969年12月4日にパンサー党イリノイ州代表フレッド・ハンプトンを銃殺したことが、コインテルプロ最大の成果である。ゲットーのギャングにも信頼された彼こそ、プエルトリカンのヤングローズ党や先住民たちとパンサー党が手を結ぶ要にいた人物だった。政治警察FBIの触手は第三世界革命の肝心なところに届いている。
共和党政権下で壊滅工作は強力に進行していたのである。
■リズムの惑星
長くなった。画面に眼を戻そう。
コンサートを称え黒人たちの公民権を支持する市長の姿がクローズアップされる。
さらにカメラが引いていくと銃を手にしたパンサーたちが映る。黒いベレー帽に黒革のジャンパーと手袋で会場の高所に立って全体をガードしているのである。
このシーンにぶっ飛ぶ。これに驚かなければ映画など時間の無駄だ。
この綱渡りのマキャベリズムにハーレムの奥行きが見える。「自分自身を映画の中に挿入する」
と監督アミール“クエストラブ“トンプソンはインタビューで応えている。最初は延々と続く長い記録でしかなかったという。そこからこうした形にフィルムを再構成した者の慧眼、悪も善も見通す眼力を感じさせるのである。彼自身がDJで映像はターンテーブル、つまりこれはサンプリング作品なのである。
プロデューサー、トニー・ローレンスの般若面も映り込んでいる。共和党リベラルの市長をあえて舞台に上げて警察とギャングスターを抑え、教会に通う敬虔な黒人たちからステップを踏む子どもたち、武装した極左活動家までが共振するコンサートを企てたのは、見るからに喰えない面構えのこの人物である。ゴスペルを唱和するキリスト教徒のファミリー、目の前でキング師を殺されたジャクソン師の証言、期間中に起きたアポロ飛行船の月面着陸に「金の無駄」と言い切る黒人のインタビュー映像などなど――が次々とターンテーブルに載せられ、ステレオタイプな暴動シーンはあえて最小限に抑えられる。
映画はこうやってハーレム社会の濁った生命力を浮き彫りにしていく。
だがステージの主役はリズムだ。脈動するブラックピープルの顔、顔、顔。
そして彼女/彼らのダンスと乱れ飛ぶ言葉たち。スター・ミュージシャンではない。
のっけからワンダーのドラム・ソロ。これがリズムの饗宴の宣言になる。B.B.キングやチェンバース・ブラザーズといった大物の後で溢れ出すのはゴスペルの大波だ。
それも教会に通う黒人たちしか知らないようなファミリー合唱グループが続く。
日比谷野外音楽堂を思い出す簡素なステージからコーラスの大音声が観衆に押し寄せる。
これに会場のブラックピープルが揺れながら押し返すのである。
白人向けの顔をかなぐり捨てた5th ディメンション。ステイプル・シンガーズのタフな女声デュオ。そこにマへリア・ジャクソンが迎えられる。テンプテーションズを抜けたばかりのデイヴィッド・ラフィンのmy girl。グラディス・ナイト&ピップスからスライ&ザ・ファミリーストーンへ昇りつめる。
このラインナップが黒人霊歌からゴスペル、ブルーズからR&B、モータウン、ソウル・ミュージックへ辿られる黒人音楽史になっている。6日間の順番通りではない。
各セットを切り張りしたコラージュなのである。
眼を見張らせるのはミュージシャンの演奏だけではない。繰り返そう。
むしろこれに応える人びとの表情やファッション、ダンス・スタイルとステップの豊かさである。バンドが変わると会場の雰囲気も一変する。年齢や階層がまったく変貌するのである。DJとしての監督アミールが時間をシャッフルして違いを切り立たせたからだ。
このミキシングによってハーレムの街に折りたたまれていた襞がほぐれて、喜びが爆発的に解放されるのである。
■アフター・ハーレム
映像はスライの歌で折り返される。ここからキューバ出身のコンガ奏者モンゴ・サンタマリアとプエルトリコ移民のレイ・バレットのラテンのリズムへ。1969年にはサルサはまだラテン系たちの生活圏から出ていない。キップ・ハンラハンのアヴァンジャズ/ラテンのレーベルも現れていなかったことを思い出そう。さらにズールーのダンサーとドラマーたちで西アフリカまで脈動を遡っていく。
ここまで来てようやくジャズの世界展開が展望されていく。とはいえいきなりのソニー・シャーロック。フリージャズの前衛ギターがsummer of soulで聴けるとは思わなかった。
これはフリーがsoul musicの一端だったその証である。さらに矢継ぎ早に登場するマックス・ローチとアビー・リンカーンのカップル。端正なモダン・ドラミングの完成者はレフトの立場を隠さない。ヴォイスが呼びかける意味も明らかだが、そこには公園の群衆が映されていないのである。これは監督によるジャズの受け止め方なのか。
「意識と無意識」という枠組みはこの時代の欲望であり制約である。
ジャズの意識とソウルの無意識。ジャズは藝術音楽と大衆芸能に引き裂かれた音楽だ。
20世紀の初め、ニューオーリンズで生まれた瞬間からカリブ-アフリカとフランスの音がまぐわう濡れ場の生々しさがある。フランツ・ファノンの思想が黒い皮膚と白い仮面のあわいで育まれた経験にも近い。コットンクラブはハーレム・ルネサンスに沸く街の真ん中でフロアは黒人禁制、すぐ傍のサヴォイは人種混合である。30年代に2つの場所を跳びまわってジャズは爆発する。
ところがだ。黒人音楽の上澄みから派生したロックは1969年には若いブラックたちに浸透してくる。仮面も皮膚もマダラになる。ジャズを支えてきた感覚の底が抜けるのである。
1981年にコロンビアの大学院生としてこの街に来たバラク・オバマは、通りに溢れるヒップホップ文化に面喰うが、恋人のリベラル左派的な白人家庭にも馴染めない。
ケニヤ高官の父とユダヤ系人類学者の母の下、ハワイで育ったオバマはここから黒い音に浸り政治学に直進していく。これはエリートのアイデンティティ危機には違いない(オバマ自伝『マイ・ドリーム』より)。オバマの政策は大きな限界を残した。とはいえ無底の不安に新たな自我を作り直して普遍を再構築する姿は、パンサー党員の両親を持ちオバマが来る10年前にハーレムに生まれた2PAC・シャクールもはるか下から辿った道だ。
西海岸の監獄で彼は、メヒコ系トルコ人とポーランド系ユダヤ人を両親とする女性の傍らでネルソン・マンデラの妻の伝記を暗唱して育ったのである。
彼らはもう例外ではない。タイガー・ウッズも大坂なおみも、副大統領カマラ・ハリスも上の動き、底はもっと交雑している。マダラな皮膚は無限のヴァリエーションを獲得した。
ビヨンセやケンドリック・ラマーに関心を抱く68年オヤジは希少種だろう。だが沈みゆく街で私の傷は揺れる。ついに黒人音楽は21世紀にレコンキスタしたのである。
ジャズの意識性とソウルの無意識性はもう区別がつかない。黒人たちが共有したこういう100年の経験がDJに映像から別の次元を引き出させたのではないか。
アパルトヘイトの南アフリカからやってきたトランぺッター、ヒュー・マサケラの画面が流れた後、ニーナ・シモンとスライの再登場でその次元が一挙に姿を現す。
ラストシーン近く、ニーナ・シモンは獄中の活動家から届いた手紙をまるでシャウトするように読み上げる。
■summer of soulの応答
―――準備はいい? ブラックのみんな、必要なことをする準備は。さあよく聞いてね。
必要なら殺す覚悟はある? 心の準備はできてる? 体の準備もできてる?
白いものをたたき潰す準備は? ビルを燃やす準備は?
黒人のみんな、ほんとうに覚悟はできてる?
Nation of Islamを去ったマルコムはあえてハーレムに踏みとどまった。
敵意を抱くかつてのブラザーが対岸のニューアークから付け狙っているのを知りながら、ハーレム共同体の深奥にアフロ-アメリカン統一機構を樹立したのは1964年3月8日である。智も武も聖も、凶や死や腐さえも凝集した厚み。
そこから生まれるものを信じたからだ。
そのマルコムはもういない。暗殺後4年の闘いによって一義的に意訳された言葉をマルコムのいない125丁目に届けとニーナ・シモンは歌う。その後の彼女はアメリカを去り悲痛な道を歩むのである。だがBy Any Means Necessary「いかなる手段を取ろうとも」のmeansとはゲットーの残酷と豊穣が孕むあらゆるやり方を指したのではないか。
そしてジェントリフィケーションが進む今、ハーレムの泉は枯れたのか?
スライの最後の曲「ハイヤー」は映画からの応答のひとつだろう。人種混合バンドの天に抜けるリズムに、最も若い群衆が最高のテンションで押し寄せる光景が画面いっぱいに広がるのである。そしてエンドロールが流れる中で、スティーヴィー・ワンダーが司会者のスーツの袖をつかんだまま放さないという不思議なシーンが映る。オマケのジョークである。
駄々っ子よろしく布を握りしめる盲目のワンダーがここで言い放つ。
―――これはオレが、このオレが買ったんだぜ!
DJは「裂け目」を見出す。ニーナ・シモンのあまりにダイレクトな言葉に
この二つのシーンをぶつけたところに、監督アミール”クエストラブ“トンプソンの「ハーレムなき世界」への呼びかけを感じたい。Black lives matterはハーレムから始まったわけではない。どこからでもない。 BLMは「場所なきメタ民族コミューン」の夢を育んだのか?
沈みゆく街で私はそういう声を聴きとったのである。
これがこのシリーズのテーマになるだろう。
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