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駒形一路先生「仰げば 天守」No.30 2022.9.8

高等学校国語科の教壇に立たれる駒形一路先生のご随想「仰げば 天守」(No.30)を、先生のお許しのもと、ここにご紹介いたします。

 まだ文学を読み始めたばかりの若い頃、いかにも「身辺雑記」といったふうの作品を読むのが苦手でした。何も起こらない。何も主張しない。ただただ身の回りに起きたことを淡々と綴っていくだけの随想。そんなものに目を通すたびに、「時間の無駄だった。自分はもっと、人間を、存在を、哲学を問うような作品を読みたいのだ。なぜわざわざ見も知らぬ人間の献立や散歩について読まねばならないのか」などと、苛ついたり憤ったりしたものです。

けれども、いつごろからでしょうか、むしろ、なんでもないような日々の雑感を枯淡の筆致で綴るような随想にこそ、文学の文学たる所以が潜んでいるのではないか──そのように思うようになりました。

日々のルーティーン、誰でもが為すような日課であっても、その営みやそれを叙述するありようは、人それぞれによって変わります。人類の歴史すべてに鑑みたとしても、そこにはただの一つとて、同じ営みなどありません。人が人として送る日々、時間のすべては、二度と生じることのない、その一回限りのものであるはずです。そうした固有の、複製不可能で代替不可能な出来事を、哀惜を込めつつ一つの文章へとまとめる。そんな随想を読むことの妙味。

例えば、以下のくだりはどうでしょうか。

歌の表彰式で上京した河野裕子が東京駅から京都の永田氏に赤電話を使うにあたって、とてつもない量の 10 円玉をじゃらじゃらと用意するシーンでは、同じようにして自分が通い詰めた電話ボックスの臭いまで思い出した(かけなれた番号も、思い浮かぶ気がする)。

駒形一路「仰げば 天守」(No.30)より

電話ボックスの臭い。

この表現には、他の何にも代えることのできないような、出来事の唯一無二性、ひいては人の生の唯一無二性が凝集しています。

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