あきらめる資格がない、僕には。
この社会をめぐる様々な出来事や、そこに飛び交う言葉。最近、「それはいくらなんでも、あまりにあまりすぎる…」と、目や耳を覆いたくなってしまうことが多い。あいも変わらず、Yahooのコメント欄にはヘイトが飛び交い、あろうことか、国会議員が民間の出版物への"表現規制"を示唆するツイートをする。五輪での日本人選手の活躍を讃える韓国のコメンテーターの話が記事にされると、なぜか、「反日」と騒ぐ連中が現れる。
正直、げんなりしている。
もう、この社会は終わっている。何をやっても、手遅れだ。
あきらめの念が、胸に湧いてくる。
でも、そのたびにいつも、自分自身にこう言い聞かせる。
僕には、あきらめる資格など、ない。
僕は、この社会の、マジョリティである。
マジョリティは、マジョリティであるというそのことだけで、マイノリティを圧迫している。抑圧している。たとえ無自覚であったとしても。
例えば僕が、この国の教育の恩恵を存分に享受しているとき、そこから除外されている人たちは、満足に学ぶことすらできていなかった。彼らにも行き渡るべき助成金が行き渡っていない…ということはすなわち、僕の享受してきた教育は、彼らからの搾取によって成り立っているということだ。
例えば、性的マジョリティというポジショナリティから、ブラウン管や漫画のなかの「おかま」キャラクターを娯楽対象として消費していたとき、僕は間違いなく、性をめぐる権力の代行者であり、暴力の主体であった。
あきらめる資格などない。
この社会をこのようにしてしまった主体として、この僕は、存在してきた/しているのだ。あきらめることは、自己批判と、そして何より、僕が傷つけてきた人々への謝罪を、放棄することに等しい。
声を、あげ続けていく。
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