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現代"役に立つ"考

「役に立つ」、という言葉がある。『精選版 日本国語大辞典』では、以下のように説明されている。

やく【役】 に 立(た)つ

その役に適している。使用して効果がある。用が足りる。
※御伽草子・蛤の草紙(室町末)「うつくしきはまぐりひとつつりあげたり。〈略〉何のやくにたつべきとて」

では、「その役に適している」というときの「役」とは何か。同じく『精選版 日本国語大辞典』で調べると、いくつかの意味が解説されている。そのなかから、「その役に適している」「役」に該当すると思われる定義を選ぶなら、以下の説明がそれにあたるのだろう。

④ 受持の仕事。役目。つとめ。官職。職務。任務。

つまり「役に立つ」とは、自らが受け持つ仕事や役目に適しているという意味であることになる。

さて、昨今、以下のような言葉をしばしば耳にする(あるいは、目にする)ことがある。

〇〇なんて勉強しても、社会に出てからはまったく使わない。そんな役に立たない教科を、学校で教えることなど無意味だ。

この「〇〇」に入る言葉には、「古文」や「漢文」、「数学」、あるいは「英文法」など、いろいろなバリエーションがある。なるほど確かに、社会に出てから古文漢文を必要不可欠のものとして読む人間など、ほとんどいないだろう。ルートの計算などできなくても、生きていくことはできる。自分ひとりが、生活の糧を得ることはできる。つまり、古文も漢文も、数学も、英文法も、自分ひとりの生活のみを考えるという前提なら、確かに、「役に立つ」とは言えないのかもしれない。少なくとも、直接的には。

が、どうだろうか。

「役に立つ」、つまりは自らが受け持つ仕事や役目に適しているということを言うとき、「自らが受け持つ仕事や役目」とは、決して"自分ひとり"ということを前提としてはいないだろう。むしろ、自らが暮らす社会のなかで自らが受け持つ仕事や役目ととるほうが、妥当な解釈であるはずだ。

近代社会において、市民は、自由で平等な個々人として位置づけられた。
すばらしい理念だ。
是が非でも、次世代へと手渡さなくてはいけない、人類に普遍の倫理と言えるだろう。
しかしながら、市民一人ひとりからそうした自覚や矜持が失われるとき、そのような個のありようは脆くも崩れ去り、全体主義という魔物が目覚めてしまうということを、20世紀の歴史は雄弁に語っている。
とするならば、現代の市民社会に生きる僕たち一人ひとりに課されている「仕事や役目」とは、もう二度と、この社会を、あの悲惨で冷酷な全体主義へと堕落させることなきよう、自覚的であるということではないだろうか。

では、そのために必要なことは何か。

理性の陶冶。

市民個々人が、この社会を維持し、発展させていくための主体たるべく、自己の理性を鍛えていくこと。

むろん、人間の理性なるものに絶対の信頼を置くということではない。理性は、常にその限界を意識しなければ、容易く暴走する。原子爆弾を産み出したのは、人間の理性なのだ。
しかしながら、理性の限界を知り、理性中心主義の抑制を意識し得るのも、やはり、理性の働きに拠るものであろう。理性は怖い。だから理性を捨てる…それでは、牧歌的ロマンディシズムに回帰するだけであり、そしてロマンティシズムは、潜在的に、全体主義への志向を常に胚胎している。

それならば、いかにして理性を鍛錬するか?

もちろん、勉強である。思考の訓練である。

では、そうした目的で学問に取り組もうというとき、果たして、古典や数学、英文法は、「役に立たない」と言えるのだろうか。

学問をめぐる〈有益/無益〉の議論には、こうした観点…自己本位の「役に立つ」ではなく、社会本位の「役に立つ」、といった視点からの言及も必要であるだろう。むろん、社会のためには自己を犠牲にすべき、などと言うつもりはまったくないが、しかしながら、昨今の「役に立つ」は、あまりにも、"自分にとって"という意味合いが強すぎるように思える。


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