アニメ『あしたのジョー』『あしたのジョー2』を観た感想

もうすぐ5時だが一向に寝れぬので文章を書く。
一旦朝起きるようになっても昼寝でもしようものなら
すぐ昼夜逆転に戻ってしまう…
以下作品のネタバレを含みます。

アニメ『あしたのジョー』『あしたのジョー2』

言わずと知れたボクシング漫画の金字塔、名作、原点の漫画
高森朝雄先生、ちばてつや先生のあしたのジョー。
そして出崎統監督によるそのアニメ。
なんかこんな不朽の名作のレビューを今更やる意味とは…とか思いますが、
個人的備忘録も兼ねて書きます。

以前に同監督によるアニメ
「おにいさまへ…」「ベルばら」「家なき子」を観ていたので、
次はこれと言わんばかりに観ましたが、やはり素晴らしかったです。

もちろん名作たる漫画原作あってのことなのは大前提なのですが、
上記作品でも共通して、出崎監督の作品は「人間が描かれている」って感じがします。
本作の主人公ジョーと、その永遠のライバルたる力石徹。
この2者の名前は作品を見た事がなくても知っていましたし、
放送当時社会現象と化し、キャラクター力石徹の葬式がファンにより実際に執り行われたという逸話は聞いていました。
が、私知らなかったんです。
力石徹が割と序盤で死ぬということを。

もう力石と言えば最大のライバル、
ライバルの代名詞と言ってもいいくらいなんで、
当然ずっとジョーと切磋琢磨しあって、
物語の最後に大舞台でベルトなりなんなりを賭けつつ闘うんだ、
でその個人的な闘争と友情に日本や世界中が注目し、
巻き込まれて、飲み込まれちまうんだろうと思っとったのですよ。
浅はかな素人考えでした。
アニメを見ていて、まず驚いたのは
ジョーがなかなかボクシングしないことです。
丹下段平がジョーの才能を見つけ惚れ込み、
いじましくも肉体労働で働いて食わせてやる、
小遣いまでやる代わりにボクシングをやってくれと言うのに、
ジョーは遊びまわって、詐欺を働いて、鑑別所にぶち込まれて、
おまわりを何人も殴り倒して、少年院送りになって、
脱走を試みて、それを阻止され、
その時力石に出会うまで…ほとんどボクシングに興味を持ちません。
ここまで何話かかったのか?
最近の作品ではまあ見ない…ありえないと言ってもあながち間違いじゃないくらいの構成。
しかし、この間もちゃんと面白いので問題にならない…というか、
この作品にはこれが必要だったとわかります。
ジョーがいかに尖ってて、粗野で、ひねくれてて、寂しい人物かというのを存分に見せつけられるからこそ、
ボクシングの道に進んで変わっていくジョー、変わらないままのジョーが心に響くんだと思います。

で、初めて出会った強敵力石がボクサーだってんで
ジョーもボクシングにのめり込んでいく訳ですが、
プロになって割と遠からず力石と闘うことになり、ジョーは負けちまって、
しかも力石が無理な減量と、打ち所が悪かったために死んでしまう。

ここまでジョーも力石も、互いと闘うために邁進してきて、
観ていてこれはもう恋では⁈と思うくらいだったのに、
死ぬなんて!
こんな重要人物を失って、これからこの物語はどうするんだ⁈
何を描くのか⁈
とがっちり心つかまれて先に進むと、
ちゃんと他の魅力的なライバル的キャラクターがたくさん出てきます。
出てきますが、ジョーはどこか常に、闘っている相手の奥に
力石の面影を追っているように描かれ続けます。
これが!
この、ジョーに何かを与え、でもジョーを負かしたまま去ってしまったことが、
生前の雄姿に負けるとも劣らず、力石を永遠で完全なライバルにしてしまったのだと思いました。

ジョーと力石をそもそもリングで出会わせた
白木葉子さんという良いとこのお嬢さんが出てくるのですが、
彼女もまたかねてからボクサー力石を支えてきた人物で、
ジョーとは基本的にある種敵対しているのですが、
(前述のようにジョーが詐欺を働いた被害者でもある)
力石を失った後、ジョーとその虚空を共有する相手ともなっていきます。
「あしたのジョー」では歩み寄ろうとする葉子さんをジョーが拒絶するシーン、
「あしたのジョー2」ではジョーのトラウマの影響を案ずる葉子さんにジョーが「だったら地球のどっかから力石徹を連れて来いよ」と言い放つシーンが印象的でした。
「反発しながらも一つの重大な欠落を共有する相手」という微妙な関係性が
非常によく描かれているように感じました。
また「2」ではジョーのその不可能な要求に応えんとするかのように、
葉子さんは世界中からジョーの相手に見合う選手を連れてきます。
(彼女は力石が所属していたジムの会長なのだ)
葉子さんにとってこれはジョーの為なのか?
それとも記録を残す前に燃え尽き、唯一ボクサー矢吹丈だけを遺した力石の為なのか?
彼女の立場や感情の変化も真に迫るものがあります。
このジョーと葉子さんという「遺された者」の心情を鏡に、
力石という「人物の死」が質量を帯びて描かれているように感じます。
その大質量に囚われて、ジョーや葉子さんの公転軌道が捻じ曲げられていて、さらにその周りを衛星として団平のおっちゃんやマンモス西たちがついてきているみたいに。
だから、ファンによって現実に葬儀が行われたというのは、
単純にキャラ人気が高じてとか、そういうことじゃないのかもしれないと思いました。

もっと無限に語るべきことはあるのですが、そろそろ夜も空けるので
私が個人的に気に入っている部分をさっさとお話するのですが、
このアニメに出てくる元ボクサーは皆、自分がもうボクサーでないことを…あるいは自分がもう強くないことを、認めようとしないんですよね。
これは引退して所帯をもった後も絶対にジョーのセコンドにつく、同門の「マンモス西」もそうだし、
ジョーに敗れた後やくざの用心棒になり「ラッキーパンチがなけりゃ俺が勝てた」と言い張る「ウルフ金串」も、
これもジョーに敗れて後再会した「カーロスリベラ」も、
「2」に出てきた元チャンピオンの焼き鳥屋のおっちゃんもそうです。
そうして何かにすがっている自我と、あえてそれに干渉しないジョーを見ると、やはりそこになにがしかのシンパシーがあるのだろうなと感じさせます。

漫画「あしたのジョー」の文庫版第1巻に載っていた寸評に、
あしたのジョーは「破滅に向かうストーリー」であると書いてありました。
これは特に同じ梶原一騎(高森朝雄)先生の「巨人の星」と比較してのことではあるのですが、確かにジョーは最初からやけくそみたいな生き方をした不良で、最後までもう得られないものを求めて闘い続けて、最後は真っ白に燃え尽きてしまいます。
しかし昔のアニメ雑誌のインタビューで、出崎監督は「その後もジョーは飄々と変わらずやってんじゃないか、そんな気持ちを込めてラストにジョーのカットを入れた」的なことを語っていました。(言葉は全く正確ではないですが)
こういうところが、出崎統監督のハートフルな部分なのかなと思います。


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