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『やってみたいことがあるのだけれど』を観たのだけれど

最高でした。その一言に尽きるのですが、いつまでもこの感動を覚えておきたくて、自分のための備忘録として、ちょっと、書き残しておきたいのだけれど。

『やってみたいことがあるのだけれど』とは、2023年5月に横浜・京都で計7日間10公演行われた男性ブランコさんの単独ライブのタイトル。
私が男性ブランコさんのことを熱心に追いかけ始めたのは遅ればせながらつい最近のことなので、これが私にとって最初に観た男性ブランコさんの単独ライブになって、それだけでもやっぱりどうしたって特別に思えてくる。生まれて初めて目にしたものを親だと認識し後を追う雛と同じで、きっと私はこの先何十年とこのライブのことを思い出すんだろうな。最初はどうしたって特別だけど、他にもいろんな種類の特別があるわけで、これから男性ブランコさんに関するいくつもの「特別」が増えていくのが嬉しくて仕方ない、そんな新参者のファンです。
私のnoteを読んでくれてる人はほとんどが私の友人で、このライブを観ていない人もいるかと思うので、各コント簡単にあらすじも書いていくね。
ということで6/22でライブのアーカイブ配信は終了してしまったけれど、今後ひとつひとつのコントはどこかで披露されることがあると思うので、ネタバレ注意です!ネタバレ有で、自分なりの考察や感じたことを書いていきます。

プロローグ『漫才師』

サンパチマイクに向かって二人が登場。彼らはつかみ部分でよく観客に対して「お優しい方々、おやさな方々ばかりで」と言うけれど、それはきっと彼ら自身がおやさな方々だからに他ならない。浦井さん曰く「人に対して悪意を向けてやろうと思ったことは多分一度もない」という平井さんが書く世界は間違いなくおやさで、それに誘われて寄ってくる人もきっとおやさで、そうでなくても彼らのワールドに浸っていると、感化されておやさな気持ちになってくるものだ。

「ちょっと、やってみたいことがあるのだけれど。」
お野菜フェスティバルが開催されたところで本公演通してのキーワードが出現し、浦井さんの観光案内所の人をやってみたいという言葉で、一本目のコントにつながっていく。

『観光案内』

観光案内所の人・野宮(浦井さん)に対し、やってきた亮太(平井さん)は「あなたの思い出の地を観光したい」と依頼する。野宮の誕生の地、初恋の地、初めて彼女ができた地、その彼女にプロポーズした地、これから思い出になる地(もうすぐ自分の子供が生まれる病院)と思い出の地を巡ったところで、亮太が実は自分は26年先の未来から来た野宮の息子だということを明かす。

「信じてくれなくてもいいです。どうせ明日には、今日の記憶は綺麗さっぱりなくなりますから。」

『やってみたいことがあるのだけれど』

記憶がなくなれば、現在の野宮にとっては今ここで会った亮太は「存在しなかったことになる」。記憶とは存在なのだということだろうか。
このコントでは野宮が自分の思い出の地を巡り、自分の人生の始まりから現在までを辿ることで、自分の人生の復習をしているのだと思う。もうすぐ子供が生まれるという大きな節目を前に、それまでの人生を復習する。そして、ちょっぴり予習もしたりする。
人生とは、生きるとは、やりたいことや生き甲斐とはということ、そして親としての義務との折り合いということを考えさせられるコントで、このライブの幕開けと呼ぶにふさわしい。

『音楽家』

超絶技巧のギターテクニックがほしいミュージシャン(浦井さん)と、その対価として25年分の寿命を差し出せと要求する悪魔(平井さん)。ミュージシャンはそれをなんとか値切ろうとするが、悪魔はここで受け取った寿命が自分たち悪魔の世界では生活費になるのだと言って渋る。生活が大変なの、みんなも知ってるでしょ?!人間が渡した寿命すべてが悪魔自身のものになるわけではなく、30%は税金ならぬ税寿命で持っていかれるらしい。厳しすぎる。大きい猫飼いたいのにね……。
悪魔なんだから生活費がなくたって死にはしないだろうと尋ねるミュージシャンに対し、死にはしないが、きちんと既定の額の納税をしなければもっと悪いことになると答える悪魔。

「こうして悪魔として存在していたことも、全て遡って、無かったことになる。」

『やってみたいことがあるのだけれど』

これを悪魔たちの世界では虚無の罰と呼ぶらしい。
ここまでは悪魔の世界も人間の世界とそう変わらないということを語り、ここでは悪魔と人間を対比しているのかな?と思った。悪魔は人間のように死ぬことはない。そもそも、改めて考えたことはなかったけれど、悪魔は生きていると言えるのだろうか?悪魔はどちらかというと天使や精霊、妖精、ひいては妖怪や「おばけ」などと同じカテゴリーで、生き物ではないという認識が一般的な気がする。
悪魔は生き物ではないから死なない。もしくは、死なないからこそ人間の定義する意味での「生」はないのかもしれない。
対して、人間は死んでも全て無かったことにはならない。死んだ後も他人の記憶に残り続けるし、思い出話として会話の中に出てくることもあるだろう。ある意味では、肉体がこの世からなくなるだけで人間は死後もこの世に存在し続けていると言えるのかもしれない。

『おっちゃん』

注意:気持ちが入りすぎて爆裂に長いです。

登場人物は二人の普通のおっちゃん、かっちゃん(平井さん)とせいちゃん(浦井さん)。おそらく40代後半~50代くらい?二人は小学校からの仲良しで、今日はかっちゃんが想いを寄せる人に告白するというが、人生初めての告白でどうしていいかわからず、せいちゃんについてきてもらおうとさえする。しどろもどろになりながらも告白は成功し、少し離れたところで見守っていたせいちゃんを彼女に紹介しようとするが、彼女には自分が見えていないから紹介はしなくていいと言うせいちゃん。そう、せいちゃんはおばけだったのだ。

このコントがぁ……!私は特に……!ウッ、よくってぇ……!(しゃくりあげながら)
誇張ではなく、本気でこのコントのこと思い出すと秒で泣けてしまう。なんちゅう名作。
アーカイブでこのコントを五回程観たのですが、毎回同じところで頭の血管切れそうになるくらい笑って、同じところでぼろぼろ泣いてしまった。

「二人で嬉しいことは二倍、つらいことは半分、そういう風にしていきましょう。二人ならできます。」

『やってみたいことがあるのだけれど』

せいちゃんがかっちゃんのために考えてあげた告白の文言、これ、せいちゃんとかっちゃんの関係性のことでもあるじゃん……!二人とも「自分は相手に助けられてばっかりだ」と相手に感謝しているが、実際にはお互いがお互いを助け合い、支え合い、励まし合い、寄り添い合って生きてきた二人。
インタビューなどで平井さんのことを優しいと言い、平井さんの方が人気がある!と主張する浦井さんと、浦井さんのことを優しいと言い、浦井さんの方が人気がある!と言い張る平井さんのお二人の関係性にも重なって……私はもうだめだ。これを書きながらまた泣けてきた。

コンビを組もうと平井さんから誘われた時のことを、その時どれだけ救われたか計り知れない、ほぼ止まりかけていた自分の人生を動かしてくれた、と伝える浦井さん(https://youtu.be/C7sN7TjjXUM)とせいちゃんの気持ちが重なって更に泣けてくる。浦井さんにとって平井さんがヒーローであるように、せいちゃんにとってかっちゃんはヒーローだったんだろうな。

「おばけですねん!もう、おらんねん。もう行くから。ほなな、またずぅっと先で、会おや。」

『やってみたいことがあるのだけれど』

このセリフが、私はなんだかずっと良い意味で引っかかってて、何度も反芻しながら自分の気持ちを考えてみた。まだあまり整理しきれてないので支離滅裂かもしれない。
私は母親を18歳の時になくしていて、それからこんなに年数が経ってもなんとなく感覚的にはまだ「遠くにいるからすぐには会えない」みたいに思っていることがあって、事あるごとに「あっ、これ次お母さんに会ったら話そ!」とか考えちゃう(ちなみに一番に言わな!と思ってるのは、「エレコミのやついさん、結婚しはったで!」です)。
おばけだからもう存在しないと言いつつ、またずっと先で会おうと言うせいちゃん。一見矛盾してるようにも思えるけど、いわゆる「この世」にはもう存在してなくて(もしくは存在していないことになっていて)、「あの世」で待ってるから、またいつか会おうね、ということなんだろうな。
ゆっくり当然のことを言ったみたいになっちゃったけど(笑)、死ぬと全てが終わるってわけじゃないってことかなという風に理解しました、ということが書きたかったのです。

肉体がなくなったから他の人には見えなくなってしまって、もう存在していないということになってはいるけど、本当はこことは違う場所に違う形で存在し続けるから大丈夫だよ、悲しまないでね、とかっちゃんに言いたかったのかな。
二人ほどの唯一無二の友達なら、せいちゃんが亡くなったことをかっちゃんが知らされていないわけはないと思うんだけど、知らされた上でかっちゃんはそれが受け入れられなくて忘れちゃってるのかな?せいちゃんと一緒じゃないと無理やと思い込んでるかっちゃんが心配で気がかりで、それでせいちゃんは成仏できていなかったのかな?一人で立派に告白を完遂したかっちゃんを見て安心できたから成仏するんだろうか。
それとも、この日に告白するということはちょっと前に知っていたけど、実はこの日の直前に亡くなってしまったばかりで、だからかっちゃんはまだ亡くなったことを知らなくて、それでせいちゃんはせめて告白だけでも見届けたかったのかな?
いずれにせよ、心残りが自分のことじゃなくてかっちゃんのことだったのだとしたら、せいちゃん優しすぎる。
告白が成功したばかりでその相手が目の前にいることも忘れて、せいちゃんがもう見えなくなっても「せいちゃん?せいちゃーん!」と呼び続けるかっちゃんの気持ちを思うと切なくて、きっとそれも聞こえていながら振り返らずに進むことを決めたせいちゃんも切なくて、と書いてたらまた泣けてきた。

「かっちゃん大丈夫や。ここで見てるから。」

『やってみたいことがあるのだけれど』

内容のことばかり書いているけど、現在と過去の場面切り替えすごすぎない?リバーシブルの上着を裏返しながらというのもあるけど、おそらくそれがなかったとしても二人の声や口調が徐々に子供の頃に戻っていって、「ああ回想シーンなんだ」と分かるだろうな。その変化があまりに自然で巧みすぎて、四回目に観るまで照明も変わっていることになんと全く気付いていませんでした。演技、上手すぎる……。

『研究者』

コーヒーゼリーからコーヒーを100%抽出する機械を完成させるための研究をしている博士(平井さん)と久保君(浦井さん)。100%抽出に成功した先には、純粋なゼリーがあるんだよ!と熱弁する博士は、世の中は複雑に絡み合ってることばかりで、だから純粋なものに憧れるのだと言う。
抽出装置ことちゅうしゅっちゃんを悪用して巨万の富を得ようとする久保君は博士で人体実験をしようとするも、意思を持ったかのようにひとりでに動き出したちゅうしゅっちゃんはそれに抵抗し久保君に刺さってしまい、久保君は倒れこむ。意識を取り戻したものの、「綺麗なジャイアン」みたいな表情でじっと立ち尽くしている久保君。彼の中に渦巻いていた真っ黒な成分は100%抽出されたのだ。
なんの感情も意思も失くし、意識や思考も残っているのかどうかさえはっきりしない久保君を前にして、「これで君は純粋な人間になれたんだ。ああ、よかったねえ。」と博士は言う。抽出ができるなら注入もできるのではないかと思い付き、更なる人体実験を久保君で試そうとする博士は、意思表示ができるわけもない久保君に、勝手に裏声で「ウン、イイヨ!」と副音声をあて同意を取ったものとし、「そっかそっかあ、ありがとう。」と言って暗転、コントは終わる。

こわすぎる。

誰がこんな怖いラストを想像できただろうか?バナナマンさんの『ルスデン』、ラーメンズさんの『採集』を見た時のような、途中までワハハと笑っていた自分も含めて鳥肌で終わるコント。

巨万の富を得たい久保君の野望と、ただ研究してみたいだけの博士の純粋さの対比構造の中で、いつの間にか善と悪が反転してる。
真っ黒い感情がなくなった久保君は抜け殻になってしまった。あくまで黒い感情が抽出されただけで、感情や人格まで抜き取られたわけではないのに、久保君は空っぽになってしまった。彼の過去に何があって、どうして巨万の富を得たいのか、富を得てどうしたいのかは分からないけれど、彼の中ではきっとその野望だけが生きる目的そのもので、それが「どす黒い」成分だと形容されてしまうのだとしたら、彼は他でもないそのどす黒い感情だけに縋って生きてきたのだろう。
博士は「純粋に」研究がしたいだけなのだけど、だからこそ他のことは心底どうでもよくて、久保君が抜け殻になってても興味がない。
“良い/悪い”または“正しい/間違った”生きる目的なんていうものは存在するのか?そして、こうなった久保君は、生きていると言える状態なのだろうか?じゃあそもそも、生きているってなんなんだろう?そういうことを考えさせられる。

意思を持っているかのように久保君に逆らい反撃をしたちゅうしゅっちゃん。「抽出装置ではなく、ちゅうしゅっちゃんって呼んであげて!」と繰り返す博士と、「これは装置、機械なんですから」とそれを拒否してきた久保君。博士は機械ではなく一貫して「ちゅうしゅっちゃん」という存在として扱ってきて、だからこそちゅうしゅっちゃんは土壇場で機械ながらも意思を持ち、感情のある生き物のような振る舞いをして博士を守ったのかもしれない。
昔何かで耳にした、意識はどこにどうやって宿るのかは脳科学的にまだ解明されてないというのを思い出した。

久保君と博士が対比構造になっている一方で、『おっちゃん』のコントとこの『研究者』のコントもまた対比構造になっているのかな。
『おっちゃん』のコントは、幼少期の回想で終わる。

暗くなっても夢中で遊ぶかっちゃんに、帰らんでええんか?と声をかけるせいちゃん。

「大丈夫やって!」
「あんなかっちゃん、うち、親いつも仕事で遅いねん。」
「知ってる。」
「僕、鍵っ子やねん。」
「知ってるて。」
「……気ぃ、つかわんでええからな。」
「つかうかあ!おりたいから、おんねん。」

『やってみたいことがあるのだけれど』

損得勘定なんて一切抜きで、ただ一緒にいたいからいる。この二人の関係こそ、博士が憧れた「純粋なもの」のひとつの究極形なのかもしれない。他者に全く興味のない博士は、そこに行き着けるわけもないのだけど。

『絵描き』

盗作の濡れ衣を着せられる画家ゼンさん(浦井さん)とそのパトロンの息子ケイタ(平井さん)。実際にはゼンさんに盗作されたと主張する絵描きこそがゼンさんの絵を盗作した張本人で、それを世間に公表して汚名をそそごうと言うケイタに、そんなことをしたら今度は相手が汚名を着せられて絵が描けなくなってしまうかもしれないだろうと言い返すゼンさん。ゼンさんは資金援助が打ち切られようが、世間から酷い言われようだろうが、最悪土と石を使ってでもいいからただ絵さえ描けたら自分はそれでいいのだと言う。次期当主ではなくなってしまった自分にはもうなんの力もなく、資金援助を父親に頼むこともできないのだ、と謝るケイタ。跡継ぎだとかそんなガワのことはどうでもよくて、ただケイタがここにあるということだけが大事なんだと言うゼンさん。

「ケイタ、よかったな。これでお前は自由だ。やりたいこと、なんだってできるな。」

『やってみたいことがあるのだけれど』

ゼンさんは自分のやりたいことがハッキリしていて、それさえできれば名声や世間からの目やお金なんかはさして重要ではないのだろう。対してケイタは今まで次期当主として育てられてきて、自分の生き方ややりたいことを考えられる余地さえ与えてもらえなかったんだろう。だから、自分の影響力や肩書がなくなってしまったことで、自分にはもうなにもないと嘆いていた。しかしゼンさんから言わせてみれば、むしろ彼自身の人生にとっては足枷になっていたその役割から解放されて、これからは悠々自適に泳げるようになったと。
これまた、生き甲斐や生きる目的、自分で人生を選ぶということと、富や名声や影響力や肩書が対比的に描かれている。
汚名をオシャレに着こなすゼンさん、濡れ衣をベストに加工して重ね着するゼンさん、かっこよすぎる。配られたカードの中でどうやって人生を楽しむかという工夫ができる人なんだろうな。

『服屋』~エピローグ『漫才師』

13年分の記憶をなくし、手がかりを探して旅を続けていた男性客(浦井さん)と不思議な服屋の店員(平井さん)。店員は、体に纏う衣服には記憶が宿るというドイツの文化人類学者・民俗学者の言葉を引用する。貴方はそれを求めてここにたどり着いたのですね、と。
今までのコントの衣装が服屋さんに陳列されている服として並び、男性客はひとつずつ袖に腕を通していく。今までどことなく心許なげだった男性客が、最後にプロローグで出てきた漫才の衣装に腕を通した瞬間ハッとして目に光が宿り、「浦井のりひろ」に戻る。
服屋の店員を急かして漫才衣装を着させ、店員が「平井まさあき」に戻ったところで、ストーリーは初めの漫才の続きに集約していく。

ライブ構成が美しい~~!!!(ジタバタ)
最後のコントとエピローグ(タイトルが『漫才』じゃなくて『漫才師』なのが粋だよね)は、今までのまとめみたいな立ち位置なのかな。
漫才衣装を羽織るまで、男性客はなぜどことなく心許なげだったのか?
『観光案内』のところでも書いた通り、記憶とは存在そのものだということなのかも。
記憶喪失だと何故人間は不安になるのか。今まで生きてきた道しるべを見失って、ここから歩んでいく道の指針もなくて、過去も未来も曖昧になる。そうすると現在自分がここに存在するということも危うくなってくるのかもしれない。
記憶とは自分の存在そのもので、存在するとは他者に記憶されていること。それが生きているということだ、ってことなのかな?

平井さんがこのライブで描きたかった「おばけになった後に暮らす場所」は、一般的に「天国」とか「あの世」とかの言葉で定義されるものとはちょっと違うのかもしれないと感じた。
それはライブエンディング、トニーフランクさんの生演奏が心に沁みて沁みて気付いたら鼻水が垂れるくらい泣いていた曲『おばけっていうのはな』にも表れてる気がする。

おばけ年齢って言葉、すっごく新鮮。平井さん節炸裂。おばけって死んだ後になるものなわけで、死んでるのに年を取るんだなあと。
「生きてる」とか「死ぬ」とかっていうのはあくまで現世に生きる人間の中での定義であって、悪魔の世界があるのと同じように、死んだ後には死んだ後の世界があって、姿かたちが変わるだけで死後も存在し続ける。だから「ハローニューワールド」なのかな。新しい世界なのに「帰るぞふるさとへ」となっているのは、死後の世界は生まれる前に暮らす世界でもあって、生まれて「この世」で過ごして、死んだらまたそこに戻って、そうしてしばらく暮らしたらまた形を変えて「この世」に生まれてくるということなのかな。

「わしはいいやつになれたぞ だから君はもう、わしを忘れてな」

『おばけっていうのはな』 作詞:平井まさあき 作曲・歌:トニーフランク

この歌詞、優しさがぎゅぎゅっと濃縮されていて毎回涙腺爆発しちゃう。

ここでいう「忘れてな」は記憶から消すことではないと個人的には感じた。誰かが亡くなると、しばらくは目の前に面白い楽しいことがあっても、美味しいものがあっても、目標や趣味などやりたいことがあっても心ここにあらずで、何も手がつかなくて、ただいなくなってしまった人を思って泣くだけの時間があると思うんだけど、そしてその時間もやっぱり自分の心と向き合うために大切な時間だと思うんだけど、いつまでもそうしてばかりだと残された人はその先の人生を歩めないから、だから「僕のこと考えて泣いてばっかりじゃなくてもいいんやで。僕のこと考えてくれる時間がだんだん減っていって、自分の人生を謳歌したって、そのことに罪悪感を持ったり、僕に申し訳なく思う必要はないんやで。こっちもこっちで、向こうの世界でけっこう楽しく暮らしてるからさ。」っていうメッセージなんじゃないかなあ。
人間の世界には虚無の罪はないから、死んだ後も悪魔みたいに全てが無かったことにはならなくて、いろんな人の記憶にも残り続けるし、形を変えて存在し続ける。だから寂しくはあるけど、悲しくはないよ、ってことなのかも。

私にとって最初に観た男性ブランコさんの単独ライブということもあるけど、でもそれ以上に自分が毎日生きる上で葛藤したり苦悩したりしていることにリンクしてくる内容だったから、今後の人生においてきっと何度も何度も、いろんな場面で思い返しては心の中でぎゅっと握りしめる御守りになってくれるんだろうなと感じています。
『やってみたいことがあるのだけれど』に出逢えてよかった。男性ブランコさんに出逢えてよかった。本当に最高のライブでした。

誰かを好きになることの醍醐味って、これだよなあ。
男性ブランコさんを好きになる前には、確かにここに存在していたのに私には見えていなかった世界の断片が、私の日常に溶け込んでいく。
ハロー、ニューワールド。
I can’t go back to where I used to be!

P.S.

配信特典映像のおばけカメラで好きだったところも書き残しておく。
「 」内は映像内のテロップ、『 』は誰かの発言。

・「集まってすぐバインミーを食べはじめるチーム男ブラ」
・「みんなでおいしいメロンソーダを買った一同」
・席によっては見えにくいことが分かり、舞台を一段上げたいけど、申し訳なくて言い出せない平井さん、それを『やったったらええねん!やったれやったれ!』と明るく楽しく返してくれるスタッフさん。しかしやはり気が気じゃなくて自分も手伝おうとする平井さんと、平井さんに怪我されたら困る!と止めるスタッフさん。(←愛で回ってる世界)
・(ケータリングにて)「こっそり酒を持ち帰る浦井」
・平井さんも浦井さんも天才だから、と誇らしそうに語る作家さん
からの
・(ケータリングにて)「お弁当に釣られてやってきた浦井とトニー」
・浦井さん『今日はハンバーグね、美味しそうだ』『わんぱくハンバーグ ぱくぱく』(←わんぱくハンバーグ、 ぱくぱく?!?!?!!?サンリオの世界観?????)
・「裏で天才と言われていたのを知らずわんぱくな浦井」(←サンリオ総選挙、来年の一位)
・衣装に関して話す中で「天才じゃないですか?」と褒める浦井さん(←愛で回ってる世界すぎ)

・おばけカメラを担当されたおばけさんによるこぼれ話、漫画レポート

・映像を担当された河内彰さんのツイッターより

「浦井さん平井さんとチーム男ブラの皆さんが集まると凄くて、 終わらない文化祭、放課後のおしゃべり、夏休み、お正月、お祭りの夜みたいな時間が流れて、 うまく説明できないけど、そんな人たち(この人たちが居ると幸せ、みたいな)がいるんだなと」

愛で回ってる世界すぎる


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