ベルリン生活エッセイー知りたくなかったこと🍉

2022年からベルリン在住のボディポジティブモデル/ブロガーのGenaです。
いろんなプラットフォームに手を出して、とうとうNOTEを始めることにしました。
ここではベルリンでの生活をエッセイにして記録したいと思います。

そんなこと知りたくなかった。思わずそう思ってしまうような出来事が最近あまりにも多い。

ベルリンには、ヴィーガンという字が溢れている。ドイツ語でもVegan、ベガンって発音するらしい。
スーパーにはヴィーガン専用の食材コーナーがあり、そこにはチーズやベーコン、プランツミルクや豆腐が並んでいる。一見、従来の食品と見分けがつかないため、何度か間違えて買ったことがある。
専用コーナー以外に並ぶ食料品にも、例えば瓶詰めのパスタソースなんかにヴィーガンマークがついていたりする。原材料を見なくても推測できそうなものだけど、このマークがあることで広がるマーケットがあるんだろう。
(ちなみにヴィーガンのチョコレートクッキーだけはスーパーで買わない。。。あれは不味い。)

周りにもヴィーガンやベジタリアンの人は多く、日常生活の中でも、このヴィーガン食品がなかなかイケるとか、このレシピが美味しかったよっていう情報が飛び交っている。

私もなんだかんだ影響は受けていて、乳製品を少しだけ控えるようにしたり、自炊するときに使う肉の量を減らしたりしている。もともと肉が大好きというわけでもなかったのに、ドイツに来てからというもの肉の消費量が増えている気がしていたので、ちょっと調整したくなったというのもある。

ヴィーガン食を推奨するドキュメンタリーの中には、動物や動物性のものを食べることがいかに残酷で環境破壊的なのかという内容をたっぷり見せつけてくれるものがある。
魚の乱獲と生態系への影響、養殖の鮭の奇形とそれを食べることへの危険性、養鶏場の劣悪な環境、家畜を大きくするためのホルモン剤と抗生物質の投与。
自分が普段口にしているものがどこから来たものなのかを知ることはとても大事。私たちの身体は食べ物で作られている。
それでも知りたくなかったと思ってしまう。だって私は明日からなにを食べたらいいわけ?

肉や乳製品を減らすことは自分の身体にも、環境にも、提供してくれる動物たちにとっても良いことだろうと思う。でも私は完全なヴィーガンやベジタリアンになろうとは思わない。今のところは。自分の身体には多少の動物性の食材が必要だと考えているから。

サーモンを口にするたびに、皮が爛れながらも泳いでいた養殖の鮭を思い出すのだろう。
21世紀にビーガン食を選択しない人間の食事の味には、一つまみの罪悪感が混じっている。

とここまでが長い前置き。
私が知りたくなかったこと。それは10月7日以降、誰がパレスチナを支持し、誰がイスラエルを擁護しているのかということだ。
過去75年にわたる侵略と虐殺を含む日常的な暴力、10月以降の激しい虐殺は、国際社会のどのルールにおいてもアウトだと思われる。明らかにそうじゃない?
ロシア対ウクライナでは、侵攻された側のウクライナに全面的な同情と支援が集まったのに、この件に関しては一般市民の感覚と、政治の結果にあまりのギャップがある。

これまでも政治家やセレブリティが厳しい目で世間からチェックされ、仕分けられてきた。
政治的や社会的責任のより大きな人たち、私が直接知らない誰かがイスラエルを擁護していても、大きくがっかりするだけですんでいた。

でももし身近な誰かが、プロ・イスラエルだとしたら?
そんなこと考えてもみなかった。私個人の感覚としては、どう転んだって何万人もの一般市民を殺し、家を奪い、残った人たちを強制的に難民キャンプへ追い立ててそこを爆撃するなんて軍は、悪でしかない。決して許されることじゃない。戦争にだって法律がある。
難民キャンプや食糧支援に集まった人を攻撃するなんて、それこそ悪魔の所業だと思う。

そんなことをしている軍、それを命令しているネタ二エフ、パレスチナ人からの搾取で繁栄してきたイスラエルという国を、今、堂々と支持するという人がいるなんて。

特にユダヤ系ドイツ人の心境は複雑であろうと思う。ホロコーストがあり、ヨーロッパ最大の”被害者”という立場であったのに、10月以降状況ががらっと変わってしまったという空気感があったんじゃないか。
でもホロコーストを生き延びた人こそこんな他民族への虐殺を容認できないと、あるサバイバーが語っているのをインスタグラムでみた。

私の身近な、とても素敵な人がイスラエルの支持者だった。
ちょっと信じられなくて、一瞬固まってしまった。
それからなにか事情があるんだろう、ユダヤ系だろうし複雑な思考プロセスがあるんだろうと思おうとした。
イスラエルのある一部を支持しているだけで、虐殺には反対かもしれない、などと勝手に事情を推測するような思考が自動的に走る。

18歳の子供が、その子もそれまた愛らしい人なのだけど、イスラエルに留学すると聞いて、今度こそ凍り付いた。
今この時期にイスラエルにわざわざドイツから行くということ。
これは単なるイスラエル擁護ではなく、積極的な加担だ。

差別なんてかけらもない、寛容で上品な人だ。飾らず、親切な人。その人とその家族と、パレスチナ人への虐殺が私の頭の中でつながらない。

私は混乱していて、その人とまだ良い関係でいたくて、口元へ上がってくる疑問や反感をぐっと飲み込んだ。

飲み込んだものが腹の中で葛藤に変わる。疑問を晴らすために聞けばよかった。でもそこでさらに決定的な一言が出たかもしれない。本当に虐殺まで支持していたとして、その後私たちはいままで通り付き合い続けることができる?

多少の政治的スタンスの違いではなく、これは基本的な人権の問題で、この手の問題においては答えは明確だと思う。
自分とは関係がなくても他者の命が大切か、それとも誰が殺されていようがその構造から生まれる自分たちの利益のほうが大切なのか。

世界の権力者の多くが後者であるという事実があぶり出されていて、倫理観の根底が揺るがされているように感じている。

私の身近な世界でも。

知りたくなかった。もっと聞いたらよかった?
後悔と葛藤をなんとかしたくて、私はボランティアで参加しているパレスチナに関するニュースの翻訳に精を出す。

今の私にできることはこれぐらいしかない。

デモに参加していない。ベルリンのデモでは逮捕者続出というニュースがあり、永住権のない外国人として、デモに参加して逮捕されることは大きなリスクだった。

インスタにパレスチナに関するストーリーをアップしていたら、必死のパレスチナ人から寄付を求めるDMが届く。助けてって。彼らのストーリーズにはガザの現状が更新され続けている。
私にできる経済的な支援はもっと限られている。返事をできないでいたら、何度もコメントが来る。

苦しいな。知りたくなかった。
でも知らなかったころにはもどれない。
どうやって様々な問題と折り合いをつけて、ここで生きていったらいいのか分からないの。

職場のカフェの常連にもイスラエル出身の人が何人もいる。カスタマーサポートで対応してくれた人の名前がイスラエルさんだった。遊びに行った家にイスラエルの国旗モチーフが飾られていた。その人のルーツがその人のすべてではない。分かってはいるつもりだけど、過敏になっている私がいる。

2024年5月21日 ベルリン - ウェディング 

追記:こんなに思い悩んでも虚しいと思うのは、例え私たちの意見が食い違っていて、政治的な支持が違ったからとて、それが私のベルリンでの生活になんの変化も及ぼさないだろうということだ。
中東での出来事をヨーロッパで一市民が議論して仲違いしたとしても、実際のところ私たちは平和な生活を送れているわけで。パレスチナの子どもたちがあんなに無惨に殺されるのを直接止めることができない。でも世界は繋がっていると思うし、世界レベルでも民主主義的な力が働くと、働いてほしいと信じているのに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?