書くということがゲームを呼吸する透明さに結晶化する

書くということがいまでは売春のように響く影響を被らないためには常に賭けられている世界の存在を感知することが必要だ。『本』というもの、かつて社会や読者からかけ離れた場所に保管されていた知識はネットにおいてそれ自体賭けられている重力を曝け出した。そう、そこで常に読んだ本の履歴が参照され人は書くということを止めてしまう。そこには他人に伝えられる内容とその雰囲気が共感に流される気配を遮断することができない。

本という歴史が流出する。本は解かれるためにあるのではなくその来歴を明かすための身分証になった。その透明な核がそれ自体失われている存在の世界を手探りで進むために結晶のような構造体が目に見えるものになる必要があった。とはいえそのことが商業の邪魔をするわけではないので悪しからず。どうして物を売る人のことを悪くいえようか。しかし物を売ることの重心がどこかに消えて疲れた顔を隠すだけの毎日に新鮮な流体が転売されるだけとすれば天空に潜むエーテルも我が物顔で独占するのにやぶさかではないだろう。意味のわかることをいってはいけません。

ゲームで存在が賭けられることは堕落と紙一重である。世間の風当たりの冷たさは正しくもゲームには日常の毎日の労力をかき乱す何かがあるのを感づいている。それで毎日できるゲームにはその特典が用意されなければならなくなった。もし人が利益のためにゲームをやっているのならその利益関係からして世間の誰しもが納得できる理由を見つけ出せるはずだ。だがあいにく想像力という言葉を残して濃密に含まれる汚染の堕落は姿を消してしまう。そばにあるのはいつも通りの話題、売り上げの心配、会社の危機と消費者の金欠だ。確かに人は金銭に堕落のイメージを押し付けてゲームが堕落の神性を含み持つことを忘れようとしている。そうすれば現実の人間はいつでも自分たちの堕落を嘆くことができるようになるのだ。


ゲームの世界の呼吸を感じ取ることは現実を忘却することであるというとき、世間が忘れているはずの忘却を存在として取り戻すために堕落の要素が贈呈されなければならないということを数字が綿密に効果として埋め尽くする。そこには労力のスペックがあるのでなければならなかった。社会性というものが他社との阿吽の呼吸で綱渡りをすることが物語として演出される。しかし世界が忘れているもののと世間が忘れているものは違う。世間が本当に大事なものを思い出したいと思うときに、ゲームの世界が忘れているのはいつかあの日の忘れ傘を雨上がりに晴れた天気に幻惑されてすっかり失念してしまったというものであって大事な記憶がそこに保管される楽園の自然さにあるのではないのだ。そこにあるのは如歳のなさに対する犯行と身分秩序を打ち破る社会の隠れ蓑だけなのだ。そうして自分たちは何も忘れていないということを確認し告発しゲームを有害な影響から守っているのである。


ゲームにおいては敗北を認めることが簡単だというとき、ゲームの公正さに対する敗北はいつでも不満が増長するものだ。悪質なクレーマーはどこにでもいるが社会の不平等がそういったクレーマーに代替を見出すとき政治における典型的な敗北を受け入れる準備ができていない。評価が通らないのに批判が通るというときいつも別の領域ではその逆のことが起こり存在の堕落の埋め合わせを低劣さの溜飲で下げるときそういったゲームの影響というものが感じ取られる。人は本を読んでいない。『本』ときたらなおさらだ。ゲームの主人公は来歴を知らない。仮に知っていても設定に過ぎない。だからなおさらそれを主張すれば不審に思われて本を読めないことの言い訳をするだけだ。そうすれば人はいつでもそこにゲームの呼吸を見出し存在の代価を結晶の度合いで測るようになるのだろう。そうしたところでやはり敗北を耐えやすくなるということでは少しもないのではあるが。

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