あの人に幸あれと思うこと

久しぶりにこちらを更新するのですが、決して忘れていたわけではありません。
あっちことTwitterで社会問題めいたことを呟くたびに「だからそういうのはnoteでやれと……」と何度思ったことか……。
しかしこのnoteに書くときには私なりのルール、というかルーティンというか、
まあとりあえずこだわりがあるのです。
それは
『iPadとワイヤレスキーボードを使って書く』
ということ。
長文になればなるほど自分の思考スピードと実際にアウトプットできる速さに差ができてしまい最終的に自分が本当に言いたかったことが二転三転してしまうんですよね。
というわけで腰を据えて落ち着いてキーボードを叩く機会ができましたのでぼんやりとつぶやいていきましょう。

タイトルの通り「誰かのために幸せを祈る」ということをよくします。
祈ったところで本当にその人に何かいいことがあるかといえばそういうわけではありませんし全て自己満足の世界です。
ただ、これまで生きてきて何かしら不思議な力が働いているかのようにいいことが起こるというのは経験してきているので
多少なりともそういう「不思議な何か」というのは存在しているかも、などと夢を見ています。
その延長線上で、「自分が今受けた幸福のかけらがあの人に返っていきますように」という意味合いで祈ることがよくあります。
細い道で車を運転していて対向車が来たときにそっと脇道に逸れて避けてくれた
とか
テイクアウトの商品を温めていただいて丁寧に手渡してもらった
とか
そういうささやかな幸せを貰ったらその幸せをくれたその一期一会の相手に何か良いことがありますように、と祈らずにはいられないのです。
本当にいいことが起こるとは思って……ますね。
運が良ければ何かいいことが起こるでしょうくらいには期待しています。

さて、これをやることのいいことはその自分の願いが叶ったときに相手に何かいいことが起こる、というのに加えてもう一つ大事なことがあるんですよ。
それはズバリ
『自分の心が穏やかになる』
これにつきます。
私に限らず他の人にもこういう人いると思うんですが、誰かの幸せを願うという徳を積むと自分の魂の格が多少なりとも上がった気持ちになるんですよね。
うわ書いてて気づいた。これ明文化するとめちゃくちゃ気持ち悪いな。
まあ、兎にも角にもそんなただ祈るという行為だけで自分はいい人間であるという暗示をかけているんですね。
真昼間から凌辱の話をするような人間ですから。バランス取らないと。

ここまで読んでいただいた方の中には「あのとき声をかけてもらったのってそういうことかよ畜生」と思われる方もいるかと思いますが、
基本的にガチで心配してる時はそういう徳がどうのとか魂の浄化とかそういうの一切抜きでマジで心配してます。
どうかフォロワー、つきましてはあまねく全ての人が幸福でありますように。
これも下心なしです。心からのお祈りです。
おやすみなさい。

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