大森三彦とその妹たち 拾遺     金原 甫


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 前稿において、肝腎なことを書いていなかった。
 宮本百合子と中野重治は、日支事変(日中戦争)を受けて、内務省から事実上の執筆禁止(あるいはマスコミへの寄稿の不可能)措置を受ける。非常時における国内不穏分子の一人だということだろう。1938年1月からである。
 それは1939年秋ごろまで続き、「文壇」復帰作第一作が宮本百合子にとってはこの『杉垣』だったのだった。これは青空文庫で(つまりネットで)そこの流れは読むことができる(『選集』第五巻後書きや『ある回想から』などで)。宮本によれば、日米戦争時も同様の措置を受けて、4年間も自由に表現が出来なかったという。
 『杉垣』はその意味で、検閲をかなり(今まで以上に)意識した作品なのだろうと推測することができる。
 そこで、初出の『中央公論』1939年11月号掲載の『杉垣』と、敗戦後の単行本『風知草』(文藝春秋新社1947年5月)所収のものとの異同を調べてみた。
 骨格は変わらないが、技術的な意味での加筆や訂正はかなり多くの箇所で見ることができる。より分かりやすくするための工夫であろう。


 たとえば、

「鴻造は、誇張したといふ印象に自分では気付かず、そんな表現をした。」 →「鴻造は、それが彼の社会的な重みを示すものとなつてゐる、誇張した話しぶりに自分では気付かず、そんな表現をした。」

とか。詳しく加筆している箇所もある。

 しかしそれらは枝葉なもので、一番重要な変更は、固有名詞に関わるものであり、つまり、敗戦後の単行本収録の『杉垣』に事実に近い反映があって、 1939年発表のものにないのは、満洲という言葉である。総合雑誌発表時のものは、そこが憚れているので、国内の転勤・移住の話として読めるものとなっているので、何に夫婦がそんなに悩んでいるのか、いまいち伝わらないだろう。

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