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〜The origin of Laugh〜 feat.ヒューマン中村

笑いを追求する芸人さんの起源て何だろう。ふとそんなことを思い立って聞いてみました。
今回はルール改正で10年未満しか出場できなくなった『R-1グランプリ』で涙をのんだものの、『R-1ぐらんぷりクラシック』において、見事、起死回生を図って、初代MVPとなり、さらに『第6回上方漫才協会大賞』で文芸部門賞も受賞した、ヒューマン中村の笑いの起源。

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お笑いの元

石川県で生まれ育ったんですけど、「お笑い」って文化がほぼ皆無なんですよ。関西のお笑い番組もやってないし、吉本新喜劇も知らなかった。“漫才”って伝統芸能だと思ってたくらいですから(笑)。

テレビでは全国放送されているドリフターズさんや、ダウンタウンさん、ウッチャンナンチャンさん、とんねるずさんのお笑い番組はよく見てました。その中でも『ボキャブラ天国』が好きで、そこに出ていた爆笑問題さんのファンでした。で、お二人が出された『日本源論』というネタ本を買って読んだ時、初めて活字で“面白い”っていうのを感じた本でしたね。当時中学生でしたが、ものすごく新鮮でした。

あと、『ボキャブラ天国』を見て若手芸人てこんなにいるんやって驚きました。そう言えば今から25年くらい前、金沢に「竪町吉本劇場」というのができて、ペナルティさんとかが中心になって中継番組があったんで、ワクワクして見てた記憶はありますけど、割と短命でしたね。まだ早かったのかなぁ。残念ながらまだ石川県には笑いは根付かなかった……。

まぁテレビの影響もあって、お笑いは好きだったんですけど学校ではキャラは暗かったです。でも友達何人かで喋っていたら面白いことを言う人であろうと心がけてましたね。実際、友達の中では面白いと言われてたから、そこでは調子に乗ってました。

以前、学生時代の友達に「俺ってどんな子やった?」って聞いたら友達からひと言「普通」(笑)。それが表していると思います。でもある日突然、全員に無視されるって時期もありました。朝、学校に行ったら、急にみんなに無視されているなって感じて。何らかの原因はあったんやろうなって思うんですけど……そこからあまり人と、深く関わることができなくなりました。

その時の経験は、今でも自分の人格形成に影響しているほどのことでしたね……。ただその時自分を救ってくれたのは爆笑問題さんの本でしたし、お笑い番組でした。

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NSCへ

お笑いは好きでしたし、興味はありましたけど、自分がそちらに進むとは全く考えてなかったです。それが僕、田舎の進学校に通っていたんですけど、そこは全員が受験勉強をして大学に行くというのが当たり前と言うか、進学以外ないって環境やったんです。でも僕、全然勉強についていけてなくて、行ける大学がない……。そしたら専門学校もありとなったんですが、でも「専門ていっても別にやりたいことないしな」って思っていた時に、お笑いなら興味があるなと、ダウンタウンさんのヒストリー記事の中に出てて知ったNSC(吉本総合芸能学院)に、専門学校行くノリで入っちゃいました(笑)。

すでに東京にNSCはあったんですけど、そちらを選ばなかったのは、「そんな理由で!?」ってなると思うんですけど、当時、高校でめっちゃ好きやった女の子がおって、その子には2回告って断られてるんですけど、彼女が東京の大学に進学するって聞いたんですよ。それで僕も東京に行ったらストーカーみたいやんって思って。だから大阪の方へ行きました。
だって、「こいつ付いてきたやん」て思われて、気持ち悪がられるでしょ(笑)。

一応、両親の反対はなかったです。進路がどうするか決まってない状態が長かったので「決まったらいいわ」みたいな状態でしたけど、後で聞くと本当は仕事してほしかったみたいですけど……。

高校卒業して来た大阪は何もかもが衝撃でした。まずはNSCってこんなに人がいるんやってことで、まずはカマされました。NGK(なんばグランド花月)で入学式やったんですけど、満席でしたから。お笑い芸人になりたい奴なんて100人もおらんやろって思ってましたし、自分のことを面白いと思ってる人がこんなにいるんやって。僕が生まれた石川県にそんな価値観を持ってる人なんて当時、滅多にいないですから、本当にびっくりしました。

入学した瞬間は、「僕も面白いはず」と思ってました。一回、ネタ見せの授業があって、同期の一部の人たちのネタを見ているとすでに完成されてるんですよ! それを見た時に、これは通用しないわってすぐに挫折しました(笑)。

入学してから早々に“相方探しの会”というのが何回か行われるんですけど、持って生まれた人見知りがすごい出てしまい、その会へは行かなかった。で、結局、相方も見つけられないし、授業では別にネタもしないで座ってるだけ、話しかけないので友達もできずの状態なんで、7月くらいにNSCに行かなくなりました。ほんまにダメな感じの生徒の典型でした。普段は、ひたすらバイトと家の往復で。ただただ楽しくない日々をやり過ごしてましたね。

大阪という街も18歳、19歳の子からしたら怖さしかなかったですし。何の目的で大阪に来たかわからないフリーター生活でした。それでも、秋にちょこっとまたNSCに行って、最終的に卒業公演で1分ネタだけ披露し、ただ卒業したという事実だけがあるままNSCは終わりました。

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本格的にピン芸人へ

お笑い芸人なるって言うた手前、カッコ悪いし情けないしで、石川県にも帰れないじゃないですか。とりあえず卒業してからいくつかのオーディションライブがあったので、それにエントリーしたりして、2~3ヶ月やってたら一番最初のバイト先にいた芸人の先輩から相方を紹介してもらって、「お前、こいつと組んだらいいんちゃう? 一緒にやってみたら?」と、相方を紹介されたんです。で、そのままコンビを組むことなりました。

その相方は4年先輩。すでに自主ライブとかに出ている経験のある人で、[下がり調子]っていうコンビ名で活動し始めました。ちなみにコンビ名は自主ライブのコーナーでつけられたものをそのまま使いました。

でもそこからが地獄の始まりで(笑)。そのコンビ、1年半ずっとひと笑いもなかったんです。一応、僕がネタを作ってたんですが、ウケないから仲も悪くなっていくし、一緒に出てる芸人もシビアで、面白くない芸人とは仲良くならないから、誰も話しかけてくれないし、僕みたいな面白くない人間が逆に話しかけても嫌やろなって思って、卑屈という名のブーストがかかっていきましたね。そういうのが2年近く続き、そこから再び地獄が始まるんですけど、先輩からの紹介で、一人増えてトリオになるんですよ。でもありがたいことに、これが功を奏してウケるようになるんです。僕が一番笑いを取るみたいな役割で、[小池]ってトリオ名でした。

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でも、だんだんそれもうまくいかなくなって、下がり調子の時の相方が抜けて、あとで入ってきた人と。[19P]って名前でコンビになるんです。それで1年弱やってましたが、それもうまく行かなくなり、解散。すると、僕らを見てくれてた7年先輩の芸人さんが声をかけてくれて、そのまま[蝉丸]というコンビを組んだんです。

そのコンビは最初の方だけ良くて、ずっと受からなかったオーディションとかに合格できたりして、調子が登って来たなって思ったんですが、そっから先の壁が越えられなくて、で、当然のようにコンビ間の仲も悪くなってきて、その先輩にずっと怒られてたんです。今思ったらパワハラみたいな感じですね。ネタ合わせに行くのが本当に嫌で、お腹痛くなったり、頭痛くなったり、ちょっと軽くうつ病になってるんじゃないかなと思います。

で、これはアカンということで僕から解散を持ちかけて、2009年からピンとして再スタート切ることにしました。
ちなみにヒューマン中村は、三浦マイルドさんの自主ライブに出させてもらってから可愛がっていただいて、それでつけていただいた名前です。
で、『R-1グランプリ』の準決勝に行けなかったら完全にやめようということで臨んだら、無事に準決勝までいけたんです。嬉しい誤算でした。

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ここからはヒューマン中村が自ら語る「R-1に賭けた12年を振り返る魂のトーク」を。

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これから

定期的に、「なんかできんかったら、辞めよう」というのをやるタイプで、2010年の『R-1グランプリ』で準決勝に行かなかったら辞めようと思ったけど無事に行けて辞めなくて進めて、2011年も辞めようと思ってたけど、決勝に行けたので辞めずにすんで、でも、今年はマジで、ルールが変わり、『R-1グランプリ』に出ることが叶わなくなり、今までそれを目標に1年やってきたのが、目標を失ってどうしていいかわからなくなって……。

しばらく自問自答しまくりで、もう辞めるしかないかなと思ってたところに『R-1ぐらんぷりクラシック』が開催されることになり、これがあってくれたことで「今回、優勝できなかったら、辞めよう」という目標ができて、ビデオ審査が通ってから、マンゲキをメインにいろんな舞台に出させてもらってネタ直しをしながら本番に臨みました。これはやっぱり「吉本、劇場持っててありがたいな」って思いましたね。

ありがたいことに初代MVPとなって、ホッとしました、開放感がすごかったです。両親からも連絡もらって、いい報告ができてほんと良かったなぁって思いました。あと、『上方漫才協会大賞』の文芸部門賞も受賞して、今年は2つの賞を得てこれまでやってきた何年間を自分自身、肯定できることができました。

来年、芸人になって20年になるんですが、その弾みにもなったと思います。
これをきっかけに新しい目標ができたんですよ。来年、なんばグランド花月で単独ライブをしたいなと。

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思い出の場所

OCAT 4階講堂
ピン芸人になってから自主ライブやっていた場所です。一緒においでやす小田さんも出てましたね。意外とお客さんが集まってくれ、その中で毎回、切磋琢磨しながらネタを磨いてましたね。ここでの経験は忘れられないですね。

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行きつけの店

つけ麺「雀」
基本、外食しないんです。それにあんまり人とご飯も食べに行かないんですが、ラーメンやつけ麺が好きなので、唯一通っているのはここですね。

なんば白鯨
味園ビルの中にあるライブシアターで、今もトークイベントやらせてもらったりしてます。ここの白鯨カレー(500円)がめっちゃうまい。だいたいライブ終わりに食べてますね。

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心の支えとなる場所

本屋さんの自己啓発本コーナー
自己啓発本、ちょいちょい買うんです。基本、ネガティブで落ち込みやすいんで、心を保ちたい時に読んで助けられてます。本屋のこのコーナーにいる人を見ると、自分でなんか悩んで変えようとしてはる人たちなんやって愛おしく思えたす。

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ネタ作りの場所

ベローチェ
難波界隈に何店舗かあるんですけど、その日の気分で店舗変えながらネタを考えに行きます。長い時は4~5時間いますね。絶対他の芸人にも会ったりしますし。個人的には一番落ち着くし、値段も安いのでこれからもお世話になるとこですね。

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ヒューマン中村 プロフィール
NSC大阪校 25期生。R-1グランプリでは、第9回〜第13回・第18回と、あべこうじ・友近・マツモトクラブに並ぶ、歴代最多である計6回の決勝進出を果たした。(※第13回は敗者復活戦から決勝進出)
特技は大喜利、高校生クイズ・ロボットコンテストなどの男子学生のモノマネ。
2021年 第六回上方漫才協会大賞 文芸部門賞 受賞
2021年 R-1ぐらんぷりクラシック~集え!歴戦の勇士たち~ 初代MVP(エムブイピン)

■取材協力
なんば白鯨(大阪府 大阪市 中央区 千日前 2-3-9 レジャービル味園2F)

ヒューマン中村INFO

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取材・構成/仲谷暢之
撮影/渡邉一生



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