見出し画像

物事が裏表の関係にあること、夜の太陽

死ぬまでにやりたいこと100のことに「戯曲を書く」を取り入れて、こうして一年以内に消化できている。とても嬉しい。ずっと前に書いた「保健室がテーマの創作」にもチェックを入れました。でも「ゼクシィを鍋敷きにする」はそのまま。だって、結局棄てることしかできませんでしたからね。それは少し消化不良です。

宝物を捨ててしまった方が楽な夜。そんな人生。
作・演出と透子役をつとめました、望月花妃がお届けします。

ただ、透子として生きることになったのは予想外でした。そもそも、今回脚本を書こうと思った直接の動機はたしか、百瀬を演じた役者の演技をもっと見たくて、もっと見てもらいたいというところにあったはず。ところで、わざとらしい芝居を廃したいと願うなら、作・演出としてできる最大の方策は「あてがき」をすることだと判断していました。それゆえ、今回は構想段階で配役を決定してから執筆しており、とくに「百瀬」は最初から彼女ありきで描かれています。

百瀬の配役が揺るがない以上、透子役に求められるのは「似てる」あるいは「似せられる」こと。これを満たすことは存外難しかった。人間というのは多様で、簡単に差異が生じるんですね。それが愛しい。結局、背は足りないものの彼女と私の骨格は似ていて、何より髪や化粧について自分相手ならどこまでも「やれ」と言えますから、この配役に落ち着いてしまいました(実際、ウルフカットだった彼女に合わせて顔まわりにがっつりレイヤーを入れて、原宿の美容室で「ひっ」と叫び、そのままジェットコースターに乗れない話を続けた日があった)。

何より、透子が暗くなるほどに、百瀬は強い光になる。でも、フラッシュバックのシーンやDV被害について語る場面自体や、それを演じることに強い侵襲性があるということも、脚本を構成していくなかでわかっていきました。初めて脚本を書くうえ、演出なんて「???」という状態の昨冬、不安な要素を減らすために透子役に自分の名前を打ち込むのに迷いがなかったわけではありません。でも、誰かに精神的な負荷をかけるのが怖かった。そしてゴリゴリと、透子の尺と台詞を削る方向で完本を目指すことになります。

こうした試みがきちんと進んだのは、他の役者の皆さんがとっても魅力的で、透子以外のキャラクターも生きはじめたから。そして、脚本の解釈やアップデートに協力的だったからです。演技の方向性についても、前回の公演とは大きく違うところもあるのに、つまり私の好みでしかないのに、受け入れてくれて感謝しかありません。なお、好みとは「感情と連動しない身体の動きは無くしたい」とか面倒なことであり、訛りとか発音の癖の矯正は最低限にするという塩梅です。ずっと東京育ちだからこそ、「スタンダード」に統一されたリアルなんてありえないと思っています。

さて、透子はよく喋ります。でも、そのほとんどは独り言です。敬愛する脚本家・演出家の方が「ダイアローグの形を取ったモノローグのように思われた」と感想を寄せてくださったのですが、それこそきっと今回の狙いでした。本作のコンセプトは「自分という他者」、それから「ソリロキー(soliloquy)」だったからです(『ハムレット』の”To Be or Not to Be”もこれですね)。この企てが成功したのか失敗したのかわかりませんが、「わかりあえない他者」という前提や演劇に付随する「対話」の力を鍛えるという文脈について、「私まだ考えて」います。

「ソリロキー」というように、独り言や百瀬と目が合っていないときの透子と言葉はどれも思想と感情の産物です。「嘘の感情にならないこと」を求める演出としての自分を納得させるために、役者の私は音楽に助けてもらう日々でした。自分の感受性が便利。そういうところが、透子とも重なりますね。

「勉強もそうだよ。男女平等なんて、フェミニズムなんてさ、考えても私自身は幸せにならない。だって、求めたらこれでしょ」

『透露光過』

この台詞だけは、何も聞かなくても、一度も、少しだって嘘にならなかった。「私自身は幸せにならない」を「なれない」と聞こえるような発音にしていたのですが、ある回で「私たちは」と口をついて泣きそうになりました。

ついつい零れた話。他にもあるとすれば、どうして透子はイヤホン派なのかということ。彼女は耳にイヤホンを挿入することで、音楽が自分の内部とリンクして、不快なことまで引き摺り出してしまう。速水向葵は対照的に、ヘッドホンを装着することで騒々しい外界の音を遮断できていました。同じように「音楽を聴く」という動作をしていても、異なる効果を得ている。そういったところで、まったく別の人間だと示したかったんですね。よくわからないまま脚本に付き合ってくれた音響セクション員の皆さん、直前にかっこいいヘッドフォンをねだったのに発注してくれた小道具チーフに感謝しかありません。

どうかこのまま演出の話をしましょう。

今回もっとも予想外だったのは「映像の使い方が上手い」という声をたくさんいただいたことです。正直、言葉と舞台美術(デザイン)については少し強気でした。だけど、いや、だからこそ自分で気づかない点を褒められるのは嬉しくて、舞い上がってしまう。もちろん、この賛辞は私の力だけではなく、映像セクションあってのものです。
放り投げた好きなMVやコラージュした静止画からイメージを汲み取った上で、工夫を凝らして映像にしてくれたセクション員の皆様には畏敬の念さえおぼえます。フォントや文字速度の微調整にも快く付き合ってくれる人格者の集まりです。ご覧の通りどれをとっても想像以上で、エフェクトはもちろん、色の彩度の扱いがあまりに上手。そもそもですよ、「窓に言葉が入ってくるようにしたい」なんてどうして叶ったのでしょう?あの緑色を選んだ感性も凄まじい。「ロゴ投影遊び甲斐ありますよ」と言われて、「エンドロール……」と言ってつくり方の動画を押し付けた日のこと、ちゃんと思い出しました(土下座)。

窓枠のデザインを叶えてくれた舞台セクションの御三方にも頭が上がりません。もはや中道具に関しては「これと同じのをつくってください!」と写真を送ってサイズを調整してもらったところも大いにあって、そこで「同じのをつくる」ということがどれほど大変かということを全人類が認識すべきだと再確認しました。
パーテーションと柵にこだわり、奥ハケを譲れなくて、舞台上のすべての色に口を出し、水溜りの模様にも意味があるなんて、こんなわがまま作・演出は空前絶後であってほしい。でも、舞台は少数精鋭だから変形舞台に挑むよりは、王道で綺麗なものにして正解だったと、その判断には自信を持っています。甘やかしてくれてありがとうございました。

水溜りといえば、本作ではよく雨音がしました。あれはいつだって記憶の話です。泣いていますね。厄介なことに、百瀬と母の通話中の音だけは「シャワーの音」と指示していて、透子がお風呂に入っていることにリンクしていて、現実であるという立て付けでした。音響のイメージなんにもついてなかったのに、面倒なことばかり考えますね。
だからこそ、百瀬がお風呂に入っているときには、透子と速水向葵はベランダにいなくてはならなかった。あのまま室内で話していてシャワー音がしていたら通話時の演出効果が半減してしまうし、片方だけ音がしたらあまりにご都合主義が過ぎるのでね。余談ですが、スピーカーの位置は3つあって、どこから鳴らすか考えるのが楽しかったです。えへへ。

そろそろ照明の話をしておくべきでしょうか。早くから好みの色の話や場面ごとのイメージ画像は共有していましたが、あまりに信頼していたので途中から放置していました。試験期間が終わる頃、1月末に一度、プランナーと深夜に3時間くらい通話をして、何も間違ってなかったなと呟いた。脚本と向き合ってくれることが、きっと一番の誠実さです。あの夜の高揚感ったらありませんでした。小屋入り後に明かり合わせをしていても、調整したいところの意見は概ね一致していて平和な夜でした。
警察官が来た場面について「前と後ろから別の光を当ててほしい」と脚本に書いていた。これは加害と被害の両面性を示すためでしたが、それが透子を容疑者みたいに照らすことにつながった。「私はこれがしたかったのか」と実物を見て気づいたのは、なんとも不思議な経験でした。透子が百瀬の手を取るシーンに差した、私が選んだ飾り灯りをプランナー兼チーフがぼかしてくれた光も宝物です。水のなかにいるみたいなのにあたたかく感じられるから。

このようにしてすべてのセクションに触れていると、もはや論文が書けてしまう。駆け抜けていきましょう。

制作さんは天使です。心の安寧です。「お手伝いさんへのお菓子ちょっと工夫したい」と言ったら「おつまみ系どうかな」と言ってくれたので、調子に乗った望月は「BAR プリズム」と「喫茶 プリズム」の看板をつくりました。それを飾ってくれる。好き。

衣装としては予算を圧迫しないことをモットーに、デザイン画を書いて、着てもらって、骨格を生かせるよう調整しました。そういうところをちゃんと評価してもらえて嬉しかった。筒美のベストはじつは釣り用です。あれをやりたかったんですよ、ええ。

宣伝美術、無限に惚気られます。そもそも最終的なタイトルは「ロゴをつくるとき楽しいか」という軸が増えたことで決めきることができました。セクション員によって生み出されたあらゆるヘッダーに、毎時テンションが上がっていました。自分が手を動かしたなかでは、ひさしと「推し台詞」のカードに納得がいっていて、でもこたての方が褒められています。なんで。宣伝美術チーフによるロゴ、立て看板、当日パンフに感涙。

webさん、すごいです。贅の限りをつくした望月の思いつき投稿スケジュールを管理してくださってありがとうございます。テーマソングだの推し台詞だの、エゴの極みみたいな企画については、webさんを超えて座組全員にお詫びと感謝を申し上げなくてはならない。間接的に「脚本読んでね♡」と言っているみたいな、そういうとこやぞ。しかも、「note.つくりたい」と言ったのも、その更新スケジュールもこうしてきっちりと守られている。なんで???(ひとから言われたことを守れない悲しい生命体代表。)

ほとんど座組の惚気になりましたね。宇宙一なので止むを得ない。心から、どんな劇団にも劣らないと思っています。

余談ですが2024年はどうにか日記をつけています。いつか「私なんかの想像を超えてくれ、涙が出そうになるよ」と綴っていました。それが叶って嬉しいんです。つまり満たされていて、実際ここに書くことなんて大してなくて、当日パンフレットに寄せたことがすべてです。それなのにもう4000字ほど綴っている。劇作家としてテーマや背景を語るのなんかは控えたかったはずなのに。

けれど最後にもう少しだけ、過去ではなく未来に向けて書いてみます。

『透露光過』において私は、初めて演劇の作・演出として表現をしました。これまでと同じように、生きていくうちに積み上がってしまった課題意識と思考に向き合いつつ、奇跡みたいなつながりのなかで貰ってきた言葉を、観てくださっている方々に届けられるように心がけました。それでいて、どうにか嘘の感情が紛れ込まないようにしたかった。

実話かと疑われることが多かったのですが、今後生み出すものでさえ実体験をもとにしたフィクションでしかないのだと思います。経験したことのない痛みを語るなんて営みに、私はきっと、一生届かないから。それでも、見出したメッセージやテーマに沿って構成されていくにつれ、どこかを削り、あるいは肉付けしていくうちにフィクションになっていく。どうしたって、ドキュメンタリーではないのです。

大学に入る少し前から交流のあった友人は、「演劇になる人生っていいなと思った」と感想をくれました。私はフォークを持ったまま、「いや、演劇にしているんだよ」と即答します。誰の人生にも劇的な出来事はあり、物思いに耽る時期はあり、そこを抜き出して膨らませていけばいわゆるドラマになる。私に限ったことではないのです。そのことだけは、私自身がこれからも生きていくために、生き存えて表現を続けていくために書いておきたい。「うん。多分、これで終わり」です。

改めて、この作品に関わってくださった方々、出逢ってくださった皆様に心から感謝申し上げます。願わくば、明るくとも暗くとも、自らの過去と未来が支えになるような日々が続きますように。ぜひ、またどこかで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?