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本公演で保健室の先生・篠原と透子の母親・百瀬京子を演じました、立夏と申します。
今回の稽古場日記のテーマが「背なかあわせ」ということで、それを聞いたときに真っ先に思い浮かんだのが初代プリキュアでした。私の中で背中を合わせることは「信頼」の証というイメージがあります。それも、どちらか一方だけではなく互いが相手に身を任せても良いと思う必要があるため難易度が高いものだと考えます。その意味で、本公演に出てきた中で背中合わせをしていた、できていた二人はいなかったんじゃないかなぁと私は思います。

さて、私が演じた二人にフォーカスを当てると、篠原も京子もどちらも背中合わせのイメージがピンときていません。

篠原はとある高校の養護教諭です。保健室の先生というと私は生徒と一対一で対話する姿を思い浮かべます。たとえ相手の顔が俯いていたりこちらを向いていなくても、先生は話している相手の方を見ているのではないでしょうか。それこそ篠原が百瀬に対応していたように。完全に向き合っているとはいえなくても、先生は子どもの声を正面から受けとめられるような姿勢をとっていると思います。
舞台に現れていた篠原は学校に勤務しているときの姿、つまりパブリックな面しか見せていません。もちろん彼女にもプライベートな面があるでしょう。篠原は映画が好きで、保健室のデスクにいくつかお気に入りのDVDを置いていました。人に寄り添う仕事をしている反動で、篠原は映画をひとりで静かに鑑賞する派だと思っています。休日、午後2時、外は雨、家でひとり洋画を観ている姿が私の脳裏には浮かんでいます。ただ、彼女は他人と、大学からの友人やパートナーと一緒に鑑賞することをいとわない人だと思います。映画館のシートに座って、もしくは家のソファにもたれかかってもう一人と鑑賞するとき、一つのスクリーンを見るために構造上その人とは横に並ぶことになるでしょう。少し体を傾ければ肩が触れ合う距離感で。

京子は今回中心人物であった百瀬透子の母親です。京子と透子は円満な親子関係とは言えませんでした。どちらか一方だけが原因というわけではないんだと思います。ただ、京子は他人に自分の背中を預けられない性格だったのだと思います。他人を愛することはできても信頼まではできなかったのかもしれません。
透子が生まれたとき、京子はしわくちゃの顔をした娘を抱いたでしょう。保育園で遊び疲れた娘をおぶって帰路に就いたこともあるかもしれません。もしかしたら、買い物袋があるから、と手を繋ぎながら歩いたのかも。次第に娘は物理的にも精神的にも成長して、触れ合う機会が昔と比べて減ったでしょう。それでも何かと不安定になる時期、娘が一番近くにいる母に頼ろうとしたとき、彼女は娘を支えられるように背中を見せて差し出せていたのでしょうか。私は京子が故意にしなかったとは考えません。ただ、できなかった。母親なのに、というのではなくて一人の人間として京子はそれができなかったのだと思います。しかし、一方の透子がどう受け取るかは別です。京子が愛していた娘にさえ背中を預けるのを躊躇っていたら、透子の方まで諦めてしまった。そのとき、二人が背中合わせをするルートが断たれてしまったのだと思います。京子はそのことを後悔しているのでしょうか。彼女は、透子との関係が、間にサイドテーブルを挟み横並びに座るものに落ち着いたことに納得していると私は思います。

篠原と京子と、私。年齢も立場も境遇も何もかもが違います。しかし、演じていくうちに私と彼女らが徐々に一体化していったような気がします。ここまで書いてきた二人の解釈には、私の性格や感情、経験なんかが多分に含まれているのでしょう。私はいつか誰かと背中合わせできるようになるのでしょうか。

頭に浮かんだことを書きなぐっていたら要領を得ない文章になってしまいました。最後まで読んでくださった方、ならびに本公演に関わってくださった皆様方、ありがとうございました。

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