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相手との距離

私は誰かと2人で、横並びになって話すことが好きです。私が心を許せば許すほど、相手との距離は縮まっていきます。腕がくっつくようになったら、今度は袖を掴んだり、腕を組んだり、肩パンしたりするようになります。そんな人間なので、誰かと背なかをあわせることをあまり好みません。
もちろん、「背なかあわせ」には「背なかあわせ」の良さがあると思います。私の友人で、背なかをくっつけ合うと相手の体温が伝わってきて安心できるから好き、という人もいます。ただ、人の顔をじっと見るのが好きな私にとって、その状況はなかなかもどかしい。相手の顔は見られないし、相手の手を取ることも、背なかをさすることも、肩に寄りかかることもできない。「背なかあわせ」の状態でも体重を預けることはできるけど…何か違う。

このままだと物理的な「背なかあわせ」の話で終わってしまいそうなので、そろそろ内面的な「背なかあわせ」の話を。

配役が決まったときに、作演出から「そのままでいい、自然体で」と言われました。もちろん、わざとらしくないという意味での自然な演技は前回公演でも意識していました。見ている人が違和感なく、お芝居の世界に入れるように。ただ、今回はちょっと違ったニュアンスのような気がして。自然体という言葉の中に、百瀬だけでなく私自身も含まれているように感じました。お芝居は自分を違う誰かに近づけていく行為だと思っていたので、私にとっては新しいお芝居の形でとても楽しかったです。
ただ、百瀬と自分の距離が縮まって、体が触れ合うようになってからはつらかった。『透露光過』の世界に入れば入るほど、脚本に載っている言葉がどんどん胸に刺さるようになって、小屋入り期間中脚本を読むだけで涙が止まらなくなったのを今でも覚えています。作演出の言葉選びに、他の役者の演技に、劇中映像に何度泣かされたことか。当日パンフレットの言葉を見るだけであの感覚を思い出してしまうので、パンフレットは棚の奥にしまってあります。引っ張られすぎてしまうと、自分がつらくなってくるんですね。これも、初めての感覚でした。
そういえば、百瀬とは思考の仕方が違うなぁと感じていました。百瀬は思考と発話を同時にするので、考えながら独り言を言うみたいです。もともと言葉で表現することが得意なうえ、頭の回転が早いから成せる技なのでしょう。一方、私は思考するときには考えることに全神経を集中させるので、黙り込みます。(実際、情報量が多いと本当にフリーズしているのですが。)ただ、黙り込んでしまうと相手は無視されていると感じてしまうようで、悲しまれたり怒られたりすることが今までに何度もありました。百瀬みたいに頭の回転がもっと早くなって、言葉をもっとうまく使えるようになれたらいいのに。ただ、彼女はそうであったが故に将来つらい思いをするので、何とも言えないですね。ちょうどいいって難しい。

百瀬と私が「背なかあわせ」をするとしたら、背なかはくっついていないような気がします。お互い猫背だし、違う部分もたくさんあるので、おしりだけくっついてるみたいな。でも、それはそれで居心地は悪くなさそうです。あ、また物理的な話になってる…。

考えて、文章にしてみて…を繰り返していたら、いつの間にか日付をまたいでいました。すでに何の話をしているのか自分でもわからなくなっています。物理的な「背なかあわせ」を勝手に嫌って、お芝居の自然体の話をして、小屋入り中泣いた話をして、思考の話をして、また物理的な「背なかあわせ」の話をして…。話飛びすぎ。こうなったのも、12時過ぎまで起きているからだ。ということで、ここらへんで失礼します。
最後に、本公演に関わってくださったすべての方へ感謝申し上げます。
以上、『透露光過』にて百瀬を演じました朔弥がお送りしました。おしまい。

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