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日向ぼっこって背中だけ冷たくて可哀想だよね

新公を経てちょっと無神経さが加算されました。速水向葵役を努めました、どめと申します。
秋公では4歳児に引っ張られ今回はガキ大将(それは衣装の話)に引っ張られるとは随分自由度の高い人格をしているようですね。今回の役は、光栄にも「太陽のようなどめちゃんによくハマる」とのことで振っていただいたのですが、その分不気味の谷といいますか、ひなたの陰の部分に揺さぶられまくりです。いえむしろ私の深奥のダークネス部分にひなたが引っ張られたのか……?
まぁそんなわけで、個人的にはそこそこ演じやすくやりがいのある役でありました。しかし同時に、どこか掴みきれないように感じていたのも事実です。無邪気な欺きの多いキャラクターだなと。さっぱりしているようでいてどこかウェットな感情を隠し持っていたり、何も考えていない≒ノンデリカシーなようでいて彼女なりに最大限の気遣いを見せていたり。強く自分の過去を否定する一方で透子の過去を愛おしんだり、飄々としているようで百瀬透子の言葉一つ一つがあまりにも深く心に刺さってしまっていたり。その二面性というか、多面性、多層性が速水向葵というキャラクターをどうしようもなく魅力的にしていたなぁと思うのです。
ここまでただの巨大な感想ですね。テーマは、そう、「背中合わせ」でしたっけ。作中に背中合わせのアクトはありません。ですが、背中合わせについて語ることは『透露光過』を語ることになり得るでしょうか。やってみます。
せっかくですし、アクトの話を少しばかり。
ひなたという人は、透子と比べて基本的に精神年齢高めの大人なので、仮に本心と背いた言葉を口にしたとしても妙に本当らしく聞こえてしまう、聞こえさせてしまう力があります。それは彼女が他人に特定の印象を与えるための音の発し方≒欺き方を熟知しているからなのですが、まぁそれはそれとして。こうした場合にひなたの本心を観客に伝えるにはどうすればよいのか?と考えたとき、体の向きや重心といった身体運用にかなり頼っていました。
百瀬の恋バナを聞くとき、好意的な反応を口先で示しながらクッションを盾に距離を取り視線を落とす。
百瀬透子と3人でいるとき、視線は百瀬を向いているけど透子に重心を預けている。
生々しい「過去」の苦しみを知った上、現在もまた幸せでないことが許せなくて、でも自分はあまりに無力で、百瀬に顔を向けられずに過去を集めて去っていく。
挙げればキリが無いですがこんな感じ。視線も結構大事だったみたいです。
視線。2人で同じ方向を向くことが大事だと百瀬京子が言いました。視線を交わすことには必ず一種の緊張をはらみます。響きあう無言の言葉。サルの世界では敵意を、ゴリラの世界では挨拶を、交わすためのノンバーバルコミュニケーション。ずっとそればかりでは疲れてしまうのはある意味当然でしょう。それならば、せめて同じ方向を共に眺めようと言うのは理に適っています。緊張が生まれず、それでいて連帯している。
過去を見つめ直し自分の一部にしていった透子と、過去をアップデートしながら少しずつ変わっていったひなたとでは、そもそも向いている方向が違う気がします。だからこそ、視線がぶつかることもあるでしょう。未来を見つめる百瀬と、過去を見つめる透子が見つめ合うのと同じですね。作中で、見つめ合うことはあっても透子と同じ方を向けなかったひなたは、きっと透子の一番そばにいられる存在ではなかった。これからもそうあり続けるのでしょうか。「太陽」は遠くから温かく照らし見守るものだから。透子に降る雨を、黙って乾かすものだから。「笑ってるうちはずっと応援する」存在。
でも。向いている方向が真逆だとしても、背中合わせにはなれるかもしれない。相手の後ろに回り込んで、奇襲でなく、弱点を覆い隠す。
背中合わせ。あんまりすることないですね。しかし、横になっている時ならあるかもしれません。人はみな、見つめあい抱きしめあって眠る段階から、いつしか手を繋いで天井を眺めながら眠り、そして背中合わせで眠るようになっていくのではないでしょうか。これはただの妄想ですが、そうだとしたら美しいですね。背中を預けられること、顔を見なくても安心していられることは最大限の信頼を意味するはずです。顔を背け合っていたとしても、背中がぴったりくっついていればそれは拒絶を意味しないのではないでしょうか。ひなたと透子、反対な2人も、付かず離れずの背中合わせで生きていってほしい。
以上、ベイマックスの抱き枕を背中にくっつけてお送りしました。

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