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「かっこいいばかりのあの人が泣きました。湿度のある黒髪の合間に目が赤く潤んでいくのを、音もなく見つめていました。ぽろりぽろりと涙が頬をつたったのは、私の方でした。会いたければいつでも会えると思っていた、それが傲慢だったと気づいて怖くなってしまった。愚かな後輩を前に、先に笑ったのは彼女の方でした。」

7月7日のうちに最寄駅にたどりついたことに安堵した。「天の川!」という声に苦笑いしながら家にいちばん近い十字路で空を見上げたら、ちゃんと星が見えて「あれがデネブ アルタイル べガ」って耳の奥で鳴る。明るく輝くベガを目印にして、デネブからXを描くように白鳥座の説明がされている、この嘘みたいなシーンが現実。私、夢から醒めたくなかったな。

あっというまのようで、桜が紺色に溶ける夜がありふれた熱帯夜になるほどに季節は流れていて、つまり夏公演が終わって、22代の先輩方を送り出さなくてはならなかった。座組には何も貢献できなかったような気もするし、ようやく板についてきた衣装チーフも、思うようにできなかった宣伝美術も、機材音痴なのに手を上げてしまった音響オペも、どれだって自分の背をほんの少し高くしてくれるような気もする。もどかしさと独占欲を抱えた稽古場も、楽しいだけではなかったはずだ。

そんなことを思いながら、14本の花を求めて「投票所」の看板がかかる中学校を横切っていた。大きな袋に向日葵とガーベラとカーネーションを詰めて駒場小空間まで戻る頃には当確が出ていて、変わることも変わらないこともひどく怖いなと思いながら、人目を忍んで終わりの瞬間を待っていた。空っぽになったホールで、現実感なんてないまま、「会いたい人は、実際またすぐ会う」なんて同期と笑い声を反響させていた。この花を渡すことはひとつの区切りなのだと、どうして気づかなかったんだろう。

個人的な話を避けないでくれた、舞台袖で抱きしめてもらった、「テンション上げ」を褒めてもらった、私の脚本を隅から隅まで読んでくれた、打ち上げで回転寿司に連れていってもらった、お昼にパスタを食べた、りんごを剥いてもらった、生協でハーゲンダッツを買ってもらった、赤い電車で並びに座って一緒に帰った、「ありがとう」と言われた。文字に起こすと綺麗にならない綺麗なだけの思い出ばかり溢れて、見えるもの聞こえるものすべてをきらきらとさせてしまう。

25歳で、22代の誰よりも「おとな」に近い(近くなければならない)私は、一緒にプリズムを卒業しようと本気で思っていた。でも、きっとちゃんと見送りたかったから、後輩として引き継いだものを引き継ぎたかったから、ここに残っている。OBOGとして来てくださったときに出迎えたいから、まだここに居るのだろう。その重みだって、気づかないまま。

大真面目に夜空を見上げたら、ちゃんと込み上げてくるものがある。それを自分のなかに押しとどめたくて、喉に膜を張るように「アルタイルは?」とつぶやく。隣から伸びてくる細い指が大雑把な位置を示し、ついでのようにアンタレスをなぞった。冷え性で体力もないプリズム最年長の私は、三角形に入れないまま燃料を使い尽くして爆発の日を待つ赤い星に、どうしようもなく惹かれている。だけど今は、自分で見つけてあげることさえできない。

アンタレスは「アレス(Ares)に対抗するもの」、火星の最古の和名は「夏日星」。あの日は七夕だった。「願いごとをひとつ叶えてあげよう」から始まる短い曲を、あなたはきっと気に入らない。気に入らないでいいよ、あれは私の歌だから。

この場が続いてきたこと、続いていくことに関わるすべての方々へ感謝を込めて。演出助手をつとめました、23代 望月花妃がお届けしました。

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